持ち駒の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 01:05 UTC 版)
日本の本将棋が、いつ頃に持ち駒再使用のルールを採用したのかは解明されていない。通説も含め、大きな説は以下の4つに分けられる。 11世紀 最も早い説では、11世紀には持ち駒再使用ルールであったとする主張が、プロの将棋棋士である木村義徳らによってなされている。奈良県の興福寺境内跡から発掘された、1058年(天喜6年)に作られたと考えられる将棋の駒のうち、金将と同格である成銀・成桂・と金(成香は未出土)がそれぞれ異なる表記をされていることから、これらの駒が持ち駒再使用ルールの下で用いられ、元の駒が何であったかを知るために別々の表記をなしたとしている。 13世紀 国文学者の佐伯真一は、13世紀末から14世紀初頭に書かれた『普通唱導集』に将棋関連の記述があり、「桂馬を飛ばして銀に替える」と読み取れ、これが持ち駒ルールにおける銀桂交換の駒得を示している可能性に着目し、この時期にすでに持ち駒の概念があったという説を発表している。この意見に同調する研究者も少なくない。 15世紀 遊戯史研究家の増川宏一は、15世紀に書かれたとされる『新撰遊学往来』に「作物」という記述があり、これを詰将棋であるとしている。当時は平安将棋が指されていただろうと推定した上で、飛車角なしで持ち駒なしの詰将棋は考えにくいことから、増川はこの時期までに持ち駒再使用が行われるようになったと考えている。また、15世紀終わりのものとされる宗祇の『児教訓』にも賭博を戒める意味での将棋の記述があり、そこに「手をみ手をみせじ」という表現が見られることから、これが持ち駒を手の中に隠してしまい、見せる見せないの争いであったとしている。 16世紀 現存する最古の詰将棋は、1602年に初代大橋宗桂が記した『象戯作物』、最古の実戦譜は1607年の初代大橋宗桂と本因坊算砂との対局を記したものである。これらは持ち駒を用いているため、持ち駒再使用のルールが採用されたのは遅くとも16世紀の後半である。観戦記者でもあった山本亨介(天狗太郎)も、「足利末期」のこととして「勝者は敗者の兵をわが配下として勢力の増強をはかるのを常とした」「戦乱の繰り返しの時代に、いまの将棋は誕生した」としており、これは通説を追認する、ないしは通説の元となった見解と考えられる。 早い時期に持ち駒の再使用ルールが採用されていたとすれば、その当時指されていたのは平安将棋または小将棋である。しかし、小将棋で醉象(成れば太子となり、玉将と同格の駒になる)または玉将を取ったときにその駒を持ち駒として打つことが可能かどうかなど、解明されていない点も多い。
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