拉孟・騰越の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
詳細は「怒江の戦い(中国語版)」を参照 拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峡谷を隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。 騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。
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