戦争画家・秋聲
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1931年(昭和6年)の満州事変後から1943年(昭和18年)まで、関東軍参謀部、陸軍省の委嘱により、従軍画家として中国や東南アジアなどの戦地に度々派遣され、戦争画を多く描く。画家の従軍が本格化するのは、1937年(昭和12年)の日中戦争後であり、秋聲の従軍はかなり早い。1941年(昭和16年)には大阪朝日会館で、洋画側の代表藤田嗣治と共に、従軍日本画家の代表として講演している。一般に戦争画は、華々しい戦闘場面や勇壮な日本兵の活躍を描いた作品が多いが、秋聲の作品にはそうした絵はあまり無く、戦場での兵士たちの苦労や、兵士の死を悼む作品が散見される。終戦時の秋聲は、自分が「戦犯」として捕らえられるのを疑わなかったという。 秋聲は将官待遇で従軍していたため、戦地でも贅沢が出来たはずだが、共に戦う者として自身にも厳しい従軍生活を課していた。ところが、従軍生活の長さからくる凍傷で体調を崩し、1944年(昭和19年)には肺炎をこじらせる。1946年(昭和21年)日展委員となるも、多作や大作がこなせるまでは回復せず、戦後は依頼による仏画を手がけたと言われる。1974年(昭和49年)老衰により京都で亡くなった。享年89。墓所は大谷祖廟。
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