戦争時の戦地慰問舞踊活動
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1939年 (昭和14) から1942年 (昭和17) にかけて、江口・宮舞踊団は日中戦争の戦地へ計4回舞踊慰問に赴いている。第1回から第3回は陸軍の要請によるもので、第1回が1939年10月から12月にかけて訪れた中国南部であった。軍用船で広東に上陸した宮と江口を含む10名の舞踊団員は、野戦病院や露営地をめぐり前線の兵士たちを慰問して回った。慰問先は各地の部隊からの申し込みに応じたもので、海南島にも足を延ばしている。演目は従来公演してきた作品ではなく、『木曽節』や『出船』など、前線の兵士たちの希望に沿う内容のものであった。移動には汽車、トラック、バスが使われ、1日2~3公演の強行軍で、殉職者の慰霊祭や墓参りに参列することもあった 。 第2回は1940年2月から4月にかけて、中国中部に赴いた。南京から揚子江を昇って漢口へ進み、その先の露営地をめぐる慰問であった。第3回は1941年2月から4月にかけて、同じく中国中部であった。この3回の慰問については宮自身が1942年に刊行した『戦野に舞ふ』で、公演の内容や兵士たちの様子などの実態を詳細に記している。宮は従軍日誌を毎日書いていたので、それを元に執筆したと考えられる。第4回の1942年6月から12月は、大阪毎日新聞社の企画・後援によりベトナム、インドネシア、マレー半島をめぐる慰問であった。これらの体験と帰還船に同船したイギリス人捕虜たちについて、宮は晩年の著作『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』で詳しく述べている 。
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