戦争時の戦地慰問舞踊活動とは? わかりやすく解説

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戦争時の戦地慰問舞踊活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:56 UTC 版)

宮操子」の記事における「戦争時の戦地慰問舞踊活動」の解説

1939年 (昭和14) から1942年 (昭和17) にかけて、江口・宮舞踊団日中戦争戦地へ計4回舞踊慰問赴いている。第1回から第3回陸軍要請よるもので、第1回1939年10月から12月にかけて訪れた中国南部であった軍用船で広東上陸した宮と江口を含む10名の舞踊団員は、野戦病院露営地をめぐり前線兵士たち慰問し回った慰問先は各地部隊からの申し込み応じたもので、海南島にも足を延ばしている。演目従来公演してきた作品ではなく、『木曽節』や『出船』など、前線兵士たち希望沿う内容のものであった移動には汽車トラックバス使われ1日2~3公演強行軍で、殉職者慰霊祭墓参り参列することもあった 。 第2回1940年2月から4月にかけて、中国中部赴いた南京から揚子江を昇って漢口進みその先露営地をめぐる慰問であった第3回1941年2月から4月にかけて、同じく中国中部であった。この3回慰問については宮自身1942年刊行した戦野に舞ふ』で、公演内容兵士たち様子などの実態詳細に記している。宮は従軍日誌毎日書いていたので、それを元に執筆した考えられる第4回1942年6月から12月は、大阪毎日新聞社企画後援によりベトナムインドネシアマレー半島をめぐる慰問であった。これらの体験帰還船に同船したイギリス人捕虜たちについて、宮は晩年の著作陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』で詳しく述べている 。

※この「戦争時の戦地慰問舞踊活動」の解説は、「宮操子」の解説の一部です。
「戦争時の戦地慰問舞踊活動」を含む「宮操子」の記事については、「宮操子」の概要を参照ください。

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