性格・政治手法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 09:08 UTC 版)
広高は行動派の人物で、「下に命令するところを、自ら先に立って行う事を善しとす。身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも下僕はよく従うものだ」と語っている(『名将言行録』)。 毎朝寅の刻(午前4時頃)に起きて、卯の刻(午前6時頃)には庁に顔をだし、馬場に出て騎乗してから食事をとった。そして槍刀の稽古をした。冬の寒の前後は弓の達人を若者たちのために招いたが、自らその先頭に立って的の巻藁を撃った。夏は鉄砲の腕を磨いて水泳をやり、皆と一緒に一汁一菜の食事をとり、武芸に励む時は粥を常に家臣と食した。公用や国政に急務が無ければ、酉の刻(午後6時頃)には寝床に入った。 広高は江戸から帰国した際には国中の視察を怠らず、普請方に命じて水害や日照りに備えさせ、税金や労役で不正が無いように目を光らせた。唐津は畑が広く、麦がよく取れたので5月と6月は家中の食事は麦飯だったが、広高も麦飯を進んで食べた。また倹約に務め、夫人と共に木綿の衣服を好んだ。年初めなどの行事でも塩魚、干し魚を用いた。なぜここまで倹約に務めたかというと、優れた家臣を召し抱えるためであり、広高は技能優れた武士を愛した。広高時代の唐津藩には1000石取りの家臣が40人もおり、その士風を慕って集まる者も多かったという。また、主従交流の場として主君を囲んでの夜話が当時は盛んだったが、広高は無用の夜話は精神を疲れさせ、明日の勤めにも影響するとして好まなかった。 ある時「銭勘定も米の升目も知らなかった者が関ヶ原で潔く死に、この者こそ真の武士である」と褒め称えていたのを聞いて、「それは違う。世を迂闊と心得た役立たずだ。そうした者は生活に困って飢えをしのげず、武具も売り払ってしまう。むしろ関ヶ原で死んで幸せだった」と時代の見えない精神だけの武士として批判した。 新田開発を行う際、防風林を造成し手厚く保護した。防風林は名勝虹の松原として現在まで存続している。
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