復活と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 01:59 UTC 版)
一度は破産などのどん底の状態にあったマーヴィンではあったが、彼の才能を惜しむ後援者が積極的に援助に回ってくれたことがきっかけとなり、途切れがちだった音楽活動も徐々に復調し始めた。1980年のモントルーでのライヴを皮切りに、1982年には移籍したCBSコロムビアより『ミッドナイト・ラヴ』をリリースする。ドイツのミュンヘンにてレコーディングがおこなわれ、シンセサイザーを使用した本作は発表と同時に評判を呼び、シングルカットされた「セクシャル・ヒーリング」も全米シングルチャートの3位を記録するヒットとなった。翌1983年には、マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーらを抑え、グラミー賞を受賞するなど健在振りを見せつけた。しかし、彼のキャリアで最大の成功を収めた本作が遺作となった。 1984年4月1日の12時半頃、自宅で両親の喧嘩を仲裁した際に父マーヴィン・シニアと口論になり、激昂した父が拳銃を発砲、至近距離から放たれた2発の弾がそれぞれ胸部と肩に命中し、病院に運ばれる前に死亡した。その日はマーヴィンの45回目の誕生日の前日だった。また、父が使用した拳銃は生前に息子からプレゼントされたものであった。4月5日には自宅前でマーヴィンの告別式が行われ、モータウン時代の盟友を含め1万人以上の人々が参列した。その後、父マーヴィン・シニアは裁判で故殺(w:Voluntary manslaughter)の認定を受け、判決で6年の執行猶予と5年の保護観察を言い渡され、1998年に肺炎で死去した。
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