復活と念願の五輪出場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:52 UTC 版)
九州代表として臨む1988年の全日本選手権、この大会を最後に引退する事を決めていた大迫は、妻や実父を東京の日本武道館に呼び寄せた。不運にも下痢に悩まされながら臨んだ大会ではあったが、初戦で若手のホープ・吉田秀彦を、2回戦で前年の世界選手権無差別級王者・小川直也を、3回戦ではベテランの日蔭暢年を破り、ベスト4に進出。準決勝戦では正木嘉美の小外掛で宙を舞うも、この大会の3位入賞という実績が認められ、再び強化選手に指定された。この大会について大迫は「体調が最悪だったにも拘らず活躍できたのは、“全国の人に俺の最後を見届けて欲しい”と開き直れたから」と振り返る。 現役続行を決めた大迫は直後の全日本体重別選手権で優勝し、同年9月開催の1988年ソウルオリンピックへの切符を手にした。同大会では準決勝戦でオーストリアのペーター・ザイゼンバッハーに敗れたが、3位決定戦で前年の世界王者であるフランスのファビアン・カヌーを僅差で退け、銅メダルを獲得。また、翌89年の全日本体重別選手権で連覇を達成すると、ベオグラードの世界選手権でも日本代表に選出された。しかし世界選手権では敗者復活戦の1回戦で敗退し、メダルには届かなかった。 1990年、旭化成のメンバーとして出場した団体戦で日本一に輝き、直後に現役を引退。この時30歳であった。
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