復活と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 22:35 UTC 版)
オールドローズバドは休養のためにテキサスに移り、そこで約3年の間休養に時間をあてた。 1917年、6歳の時に競走馬として復帰した。オールドローズバドは超長期の休養明けの6歳馬とは思えない走りを見せ、クラークハンデキャップ、クイーンズカウンティハンデキャップ、デラウェアハンデキャップ、カーターハンデキャップ、レッドクロスハンデキャップなど数々のハンデキャップ競走で勝ちを挙げていった。最終的にこの年21戦15勝の大活躍を見せ、後に同年の最優秀ハンデキャップ馬に選ばれている。 しかし、オールドローズバドはまたしても怪我により長期の休養に入り、7歳のシーズンを丸々棒に振ることになった。 1919年、8歳の時に再度の復活を果たした。すでに全盛期のような実力は失われていたが、8歳の時には30戦して9勝を挙げた。後年も各年で勝利を挙げていたが、クレーミング競走への出走も多くなっていた。1921年9月に40勝目を挙げたが、以降勝ち星は得られたなかった。 1922年、5月17日のジャマイカ競馬場でのクレーミング競走において7着に敗れたのが最後の競走となった。それから4日後、オールドローズバドは調教中に故障が発生し、結果5月23日に銃殺処分となった。ウィアーは後に「オールドローズバドは一生のうちに一度見られるかないかの馬だった。彼は私が持った馬の中で最も速い馬だったと確信している。もし彼がもっと丈夫であったら、我々は今『オールドローズバドはどれだけ速く走るであろうか』などと語らないだろう。」と回顧のコメントをしている。また、主戦騎手であったジョン・マカベイは後に「オールドローズバドは連中より早いぜ、連中ってのはマンノウォーとカウントフリートとセクレタリアトさ」と語っている。 後年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館は同馬の競走成績を称えて、オールドローズバドの殿堂入りを発表した。
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