復帰-梅常陸時代とは? わかりやすく解説

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復帰-梅常陸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:31 UTC 版)

常陸山谷右エ門」の記事における「復帰-梅常陸時代」の解説

復帰後は快進撃続け1899年1月場所新入幕を果たすと8勝1分(無敗)の優勝相当成績挙げる1901年1月場所では関脇昇進し、8勝1分で2度目優勝相当成績挙げ大関昇進1903年1月場所はまたも1分無敗3度目優勝相当成績挙げ綱取りとなる5月場所全勝のまま、9日目に梅ヶ谷藤太郎との全勝対決となった。立ち上がる梅ヶ谷もろ差しになり、常陸山は両閂になるも、梅ヶ谷寄り進んで常陸山土俵際追い詰めた土俵詰まった常陸山左右に振って右へ回り込み、左からおっつけ突き放しそのまま突き続けて最後迫撃押し正面土俵突き倒した。この勝利によって全勝での優勝相当成績挙げ、場所後に吉田司家から横綱免許授与決まった。ところが、常陸山はすぐに横綱昇進承諾することなく考えた後、全勝対決で敗ったものの自身と同じ強さ観客沸かせ梅ヶ谷健闘称え、「できれば梅ヶ谷関と一緒に昇進お願いします」と申し出た。しかし、当時常陸山梅ヶ谷揃って横綱昇進した場合現役横綱大砲万右エ門入れて3横綱バランスの悪い状態となってしまうため、協会神経使って正式に申請する前に吉田司家番頭役を担当していた清田直に取り次いで依頼したその結果常陸山梅ヶ谷同時昇進認められたことで常陸山の器の大きさ寛大な心が知れ渡る同時に歴代横綱としては常陸山が先であるという見方存在したという。横綱称号ではなく地位として確立されたのは、実質的にはこの常陸山梅ヶ谷同時昇進だったとされ、1909年から正式に規約改正された。 梅ヶ谷藤太郎競い合って精進し揃って横綱昇進したことから「常陸時代」と呼ばれ明治時代後期相撲黄金時代築いた

※この「復帰-梅常陸時代」の解説は、「常陸山谷右エ門」の解説の一部です。
「復帰-梅常陸時代」を含む「常陸山谷右エ門」の記事については、「常陸山谷右エ門」の概要を参照ください。

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