御船千鶴子の出現とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 御船千鶴子の出現の意味・解説 

御船千鶴子の出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 09:28 UTC 版)

千里眼事件」の記事における「御船千鶴子の出現」の解説

熊本県生まれ御船千鶴子が「千里眼能力持ち主として注目されるようになったのは、1909年明治42年)、23歳時のことである。その能力見出したとされるのは、自身催眠術による心霊療法行なっていた、義兄清原猛雄であり、千鶴子実家出て清原家千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。1900年明治30年代半ば)頃の日本では催眠術ブーム起こり清原千鶴子のような民間療法行なう民間医が多数存在した最初に千鶴子取り上げたのは、1909年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議な透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次治療行なったことを報じている。 実際に千鶴子透視能力直接実験したのは、今村新吉である。 1910年明治43年2月19日熊本訪れた今村が、カード用いた透視実験行い、高い的中率得た同年4月9日には、福来友吉今村二人で熊本訪れ、より厳重に封印されカード用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。しかしその後方法変えて実験行なうと、的中した4月25日には、東京戻った福来が、東京帝大内で実験報告行い一躍脚光を浴びるようになった同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たちジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。が、その結果は、試験物のすり替え事件によって、問題の「千里眼能力真偽対す答え出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。翌9月15日9月17日少数関係者集めて千鶴子得意な方法行なわれた再実験では、好結果出たが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調終始した。 その一因として、千鶴子場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人同室固辞しまた、ふすま越し隣室からの同伴認めた場合でも、終始千鶴子背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験行なったため、問題千鶴子の手元が臨席者目に触れることがなかったため、福来らの能力信奉する立場の者たちにしても、その疑惑払拭することができなかった点が挙げられる結局千鶴子熊本帰った後、1911年明治44年1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子事件報道されたことから、死後の千鶴子に関して世間からの非難が集まることとなってしまった。

※この「御船千鶴子の出現」の解説は、「千里眼事件」の解説の一部です。
「御船千鶴子の出現」を含む「千里眼事件」の記事については、「千里眼事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「御船千鶴子の出現」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「御船千鶴子の出現」の関連用語

御船千鶴子の出現のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



御船千鶴子の出現のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの千里眼事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS