御船千鶴子での実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:34 UTC 版)
詳細は「御船千鶴子」を参照 1910年(明治43年)、かつての教え子で熊本工業学校の高橋正熊は、熊本県に住む御船千鶴子が優れた透視能力を発揮して「千里眼」と言われているという話を聞いて簡単な実験を行ない、その結果を福来に報告していた。当初福来は教え子の研究成果を横取りするつもりもなく気に留めなかったが、旧制熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)校長の井芹経平がレベルの高い実験を勧めたために自らも実験することになった。 通信による実験では予想外に好成績で、1910年(明治43年)4月には研究仲間で京都帝国大学医学博士今村新吉を伴い現地での本格的実験と能力開発指導を始めた。この結果二人は透視能力の確実を確信し学会にも報告した。また4月25日付で「熊本に密閉箱の名刺を読む女性出現」と当時の新聞に大きく採り上げられた。これに対し東京帝国大学の理学博士山川健次郎は特に強い興味を示し、科学的な検証を提案して来た。公開実験が行なわれたが、不的中なら非難され、的中なら詐術を疑われ、強い疲労と能力低下に悩んで御船千鶴子は自殺してしまった。
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