御岳新道の開削と観光開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:29 UTC 版)
江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた。 江戸後期には天明2年(1782年)に猪狩村名主・長田森右衛門が下帯那村へ通じる新道の開発を立案したが、これは実現しないまま終わった。天保4年(1833年)には同じ猪狩村の百姓代である長田円右衛門とその甥・勇右衛門が再び御岳新道の開発を計画し、甲府勤番士や甲府城下の商人から寄付金を募り、工費は円右衛門が建て替え、無尽で賄われた。また、新道の開発が参詣路としても活用できるため、金櫻神社の神職らを世話人とした。工事は翌天保5年12月22日に開始され、高成村・竹日向村・川窪村・千田村らの諸村が協力し、周辺から石工や杣(そま)、人足が賄われた。天保7年には水害により新道の一部が流出し、天保の飢饉による農村の疲弊による影響で一時中断された。 御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、巨摩郡上小倉村(北杜市須玉町小倉)出身で茅ヶ岳南麓に浅尾堰・穂坂堰を開削した窪田幸左衛門が設計・測量を行っている。御岳新道は後に渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。 昇仙峡を旅した絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。 『甲州道中図屏風』の左隻中央の上段には昇仙峡から甲府市街や富士川・荒川・大泉寺(不箋では「大善寺」)を望む図が描かれ、背景には富士山が描かれている。また、この図の右には湯村を描いた図が連続している。『甲州道中図屏風』の旅程は江戸から甲州街道を進み、甲府から身延山参詣を経て、東海道経由で江戸へ帰還したと考えられており、高尾山参詣を終えて甲州街道を進み、甲府へ到着した後に湯村・昇仙峡をめぐり、再び甲府を経て身延山参詣に向かった行路が想定されている。
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