当駅付近の廃線遺構とは? わかりやすく解説

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当駅付近の廃線遺構

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 15:11 UTC 版)

桜ノ宮駅」の記事における「当駅付近の廃線遺構」の解説

明治時代には網島駅通じ路線分岐しており、また駅北側広大な淀川駅貨物駅)・淀川電車区存在していたために、当駅周辺廃線遺構数多い。しかし、近年再開発進み遺構急速に消滅しつつある。 城東線昭和初期高架電化された際、旧線外側隣接して線路敷設した。そのため、環状線東部内側には廃線跡土地平行していた。当駅は大川旧淀川)を越えるために、築堤上に設置されていたため、廃線跡20世紀末まで残存していた。 淀川駅淀川電車区の跡は再開発桜ノ宮リバーシティーや大阪市立総合医療センター生まれ変わり面影ほとんどない淀川駅隣接していた日本通運倉庫ホーム構造になっており、貨物駅跡が道路になった今も貨物ホームであった面影とどめている。淀川電車区から京橋駅通じ出入庫線の跡は、道路跨線橋築堤取り壊されて、跡に建物建ち並ぶようになり、かつての面影急速に消滅しつつある。 また、京阪電気鉄道は、かつて自社保有する京阪本線新京阪線(今の阪急京都本線)の梅田乗り入れを果たすべく、京阪梅田線なる鉄道路線計画していたが、同計画においてはここ桜ノ宮駅東側城東線の下をくぐる予定になっており、その名残として京阪設置費用負担したガード残存し、「京阪電鉄乗越」の名がついている。 さらに、国鉄地上走っていた時代名残である駅南側築堤には、梅田線ホーム建設される予定であったが、国鉄社宅地に転用された。また、この築堤をくぐるカードは、明治以来煉瓦積みの坑門が残っていた(北側抗門は現在線コンクリ擁壁であった)。この築堤は、取り壊されて現在はマンション転用され、煉瓦トンネル部分築堤撤去され明かり区間となっている。ちなみに現在の西口ホームから離れているのは、これが理由である(京阪梅田線#遺構)。 現在も残る明治時代遺構は、大川橋梁橋台桜ノ宮駅西口からリバーシティーへ向かう歩道から見える)と、駅東側ガード部分(都島中野幼稚園東側ガード)に残る橋台だけである。特に、幼稚園付近橋台は4線分残っており、明治時代に当駅から網島駅へ向かう路線分岐していたことを示す唯一の遺構であり、大変貴重な存在である。

※この「当駅付近の廃線遺構」の解説は、「桜ノ宮駅」の解説の一部です。
「当駅付近の廃線遺構」を含む「桜ノ宮駅」の記事については、「桜ノ宮駅」の概要を参照ください。

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