当初の運営状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:23 UTC 版)
「ユニオン駅 (エリー)」の記事における「当初の運営状況」の解説
1928年のユニオン駅の開業当初、ユニオン駅からは東行きと西行きの列車がそれぞれ約1時間ごとに駅を出発していた。利用客は駅の広々とした待合室で、ニュース・スタンド、電信局、理髪店、靴磨き、ランチ・カウンター、ソーダ・ファウンテンなどのサービスを利用する事ができた。列車の発着の合図は駅員がメガホンでアナウンスしており、時刻表は大きな黒板に手書きされていた。 1930年代には、ニューヨーク・セントラル鉄道はレイクショア・リミテッドを含め、エリーに発着する列車の大半である1日に20本以上の列車を運行していた。しかし20世紀特急については、当時はユニオン駅には停車しなかった。ユニオン駅はニューヨーク・セントラル鉄道の本線、通称「ウォーター・レベル・ルート」上の駅であり、西にはクリーブランド、トレド、シカゴ、東にはバッファロー、ニューヨーク、ボストンがある場所に位置していた。ニューヨーク・セントラル鉄道はまた、ピッツバーグ・アンド・レイク・エリー鉄道と連携して、エリーから支線を経由してオハイオ州のヤングスタウンへと続く列車も運行していた。一方のペンシルバニア鉄道は、ペンシルベニア、フィラデルフィア、ワシントンD.C.などへと続くノーザン・エクスプレスとサザン・エクスプレスや、ピッツバーグ行きの毎日到着列車など、エリーからは一部の列車しか運行していなかった。 無線装置の送信機と受信機などに使用されている水晶振動子のメーカーであるブライリー・エレクトリック・カンパニーは、クリスタル部門を1933年にユニオン駅の2階のスペースに移動した。ユニオン駅と鉄道との距離の近さは、機関車が通過する際のすすと振動がクリスタルの較正の際に問題を引き起こす可能性もあったが、重量の大きなクリスタルを列車からスライス部門に効率的に移送できる点を重視した。同社は移転してすぐに、ユニオン駅の2階と3階の全体を占領するまでに成長した。第二次世界大戦中、ブライリー・エレクトリック・カンパニーは24時間体制での操業を行い、地元の女性住民を雇用してクリスタルの研磨と成型に当たらせた。操業に使用されたクリスタルは車両基地に貯蔵され、グレート・デーンを連れた兵士達が基地と施設全体を保護していた。しかし同社は結局、1966年に大規模な専用施設に事業全体を移転した。
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