強訴とは? わかりやすく解説

強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「強訴」の解説

庄屋中心惣代寄合メンバーによる交渉解が行詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員かけられた。宝暦4年8月10日1754年9月26日郡上郡中そして郡上藩越前領内からも集結した大勢農民たちは、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに金森頼錦藩主となって以降各種の税や御用金使役負担増を指摘し負担免除願った十六か条の願書差し出すという強訴に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩進めていた絹や、紙などといった商品作物対す課税強化や、牛馬などに対す通行税取り立て苦し豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部下川筋が主導していた。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる。 強訴に対して藩側はまず代官猪子九郎別府弥格が対応を行った。両代官大勢農民らの剣幕恐れをなし、続いて家老である渡辺外記粥川兵衛らが農民たちへの対応に当たった農民怒号響き渡る中、両家老は願書受け入れ検見法への年貢徴収法改正断念する記した免許状渡し十六か条の願書についても了承する旨の免許状手渡した。しかし免許状には渡辺外記粥川兵衛両家老の署名印形はあったが、当時蟄居であった筆頭家老金森左近署名印形がないことに農民たちが騒ぎ出したため、金森左近署名捺印経て農民代表の小野村十郎剣村庄屋免許状手渡され要求受け入れられたことを確認した農民らは各へと引き上げていった。なお郡上藩召し抱えられた後、藩領巡検行って年貢取立て方法改正進めていた黒崎佐一右衛門は、宝暦4年8月10日の強訴騒ぎの中、郡上藩領から逃亡した農民たちの強訴が当初比較すんなり受け入れられたのは、郡上藩内での路線対立背景にあったものと考えられている。郡上藩内には年貢徴収法の改正によって農民たちから厳しく年貢取り立て、藩の収入増加を図る方針反発する勢力があり、筆頭家老金森左近はその勢力代表格であった。藩内の意見対立その後も尾を引き、年貢増徴反対派金森左近らは罷免されていくことになる。

※この「強訴」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「強訴」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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