建設中断と再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:23 UTC 版)
ローマ劫掠(1527年)により教皇クレメンス7世は強烈な打撃を受けたうえ、この機会にフィレンツェ市民はメディチ家支配に反旗を翻し、クレメンス7世の庶子でフィレンツェ僭主アレッサンドロ・デ・メディチを町から追放した。ミケランジェロは若年期からメディチ家と強い結びつきを持っていたものの、フィレンツェ共和国支持者の側について要塞の責任者として1529年から1530年のフィレンツェ包囲戦(英語版)を戦った。この戦いにフィレンツェ人は負け、ミケランジェロは町から逃亡したものの、重度の処罰を避けるため自主的に町に戻った。クレメンス7世はサン・ロレンツォ聖堂での礼拝堂建設を直ちに再開するという条件でミケランジェロを許した。 こうして1531年4月に新聖具室の建設は再開され、夏までに2体の彫像が完成した。ウルビーノ公の肖像は1531年から1534年の間に制作され、ヌムール公の肖像は1533年に仕上げのためジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ(英語版)に託されたことが判明している。同時期にミケランジェロは2体の寓意像『天』と『地』を用意していたが、後にニッコロ・トリボーロ(英語版)が完成し、ジュリアーノの墓の両脇の壁龕(ニッチ)に設置されることになっていたが実現していない。1532年から1533年の間にジョヴァンニ・ダ・ウーディネ(英語版)が丸天井(クーポラ)にストゥッコ装飾を施したが1556年にジョルジョ・ヴァザーリにより消されている。 ミケランジェロは新聖具室の仕事への意欲を失っていたことに加え、フィレンツェの政治状況に耐えかねて、ローマで新しい仕事を獲得したことを機に1534年、遂にフィレンツェを去り、以来フィレンツェに戻ることは一度もなかった。 未だマニフィコとジュリアーノの墓に捧げられる壁面は全く手を付けられておらず、河の神々の像やその他の彫像、フレスコ画など契約書にあった仕事は終わっていなかったが、この時点で新聖具室の仕事は完了と見做された。彫刻群が新聖具室に安置されたのは1545年のことで、トリボーロの指揮によるものだった。メディチ家の守護聖人である聖コスマとダミアーノの彫像はミケランジェロの模型をもとにそれぞれモントルソリとラファエロ・ダ・モンテルーポ(英語版)の手で彫られた。1559年になってようやくメディチ家の初代トスカーナ大公コジモ1世の命で、芸術家ヴァザーリと建築家バルトロメオ・アンマナーティの指揮下で礼拝堂は整備され、おおよそ今日の姿となった。
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