廃立と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:39 UTC 版)
孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・全公主・将軍の劉丞らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。孫亮は黄門侍郎の全紀(全尚の子)を召して密かに謀り事をした。 「卿の父は中軍都督であり、密かに士馬を厳重装備させ、私は自ら出て橋に臨み、宿衛の虎騎・左右の無難兵を帥いて一時にこれを囲もう。詔書を作して孫綝の領兵に命じれば、みな解散して手段を挙げられぬだろう。」 全尚は浅はかにも妻に語った。妻は人を遣わして、従弟である孫綝に密告した。 孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで、謀略は失敗に終わった。孫亮は上馬し執弓して出ようとし「孤は大皇帝の嫡男であり、位に在ること已に五年である。誰が従おうとせぬものか」と言ったが、侍中と乳母に止められた。孫亮は2日間は食事もしなかった。 孫綝が孫恩によって蒼龍門の外で劉丞が殺された他、全尚も屋敷で包囲され零陵に流罪、さらに全公主も豫章に流罪となった。クーデターに成功した孫綝は宮廷の門外に大臣を集めると、「少帝は精神疾病を患った。社稷を継ぐことは不可能である」と宣言った。尚書の桓彝は従わない態度を示したため、孫綝は怒ってその場で桓彝を殺害し、大臣から反対の声を押し切り、孫亮を廃位し会稽王に落とした。孫亮は16歳であった。 新たな皇帝には、孫綝によって孫亮の異母兄の孫休が擁立された。孫休はまもなく孫綝を打倒して親政を開始した。永安3年(260年)、会稽王である孫亮が、孫休の弟でかつ先帝であったことから、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。孫休は孫亮を侯官侯に降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した。孫亮の死に関し、孫休による毒殺であったという記録もある。 呉の滅亡後の太康年間、呉の少府である戴顕は孫亮の喪を願い出て、その遺体を迎え頼郷(現在の江蘇省南京市溧水区)に改葬した 。
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