廃絶とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 13:17 UTC 版)
天智天皇10年(671年)、天皇が崩御すると、子の大友皇子が近江朝廷の首班となった。生前の天智天皇から皇太子に指名されていた大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻し、天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ(壬申の乱)。勝利した大海人は即位して飛鳥に浄御原宮を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。この期間を近江朝(おうみちょう)と呼ぶこともある。 万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」が残されている。奈良時代には近江国の国府が近郊の瀬田(現在の大津市瀬田)に置かれ、大津宮の跡地は「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになった。しかし平安京遷都とほぼ同時期の延暦13年(794年)11月8日、桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔によって「大津」の呼称に復され、それ以降、大津地域は京都の外港や衛星都市・双子都市として発展していく。
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