広島電気軌道時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)
住民の増加による、広島城の堀の汚水による伝染病問題を解決するため、1908年(明治41年)に埋め立てを決定。埋め立てを契機に4件の軌道建設申請が出された。最終的に、四宮廣二、福澤桃介、松永安左エ門らによる東京系資本の「広島電気鉄道」との2社競願となったが、事前に話し合いにより解決していたことで、大林芳五郎や片岡直輝らにより設立された大阪系資本の「広島電気軌道」が、1910年(明治43年)2月7日に、広島駅-己斐間(現在の本線)、土橋-中島新橋-鷹野橋-御幸橋間(現在の宇品線の一部)、八丁堀-竹屋町-御幸橋間(実現せず)、十日市-横川間(現在の横川線)の路線敷設の特許を取得。同年6月18日に資本金300万円で設立された。その後、八丁堀-竹屋町-御幸橋間を紙屋町を経由する案に変更、新たに八丁堀-白島(現在の白島線)の特許を取得した。1911年(明治44年)7月に軌道敷設の第一期工事が開始される。なお1911年11月には城の外堀埋立が、翌1912年(大正元年)に運河として使われていた西塔川の埋立が終わり、のちに電車通りとなる相生通りや鯉城通りが整備される。 宮島線は、広島電気軌道による申請以前より、己斐から魚市場があった草津までの路線計画は存在した。1910年(明治43年)には、広島電気軌道のほか草津電気軌道や佐伯軽便鉄道が軌道条例に基づき申請したが、省線(山陽本線)と競合することより却下。1916年(大正5年)12月8日に、宮島電気軌道により特許申請され受理したが、関係町村との調整が不調に終わり計画中止になった。 1912年(大正元年)11月に、現在の宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間と、現在の白島線になる八丁堀から白島に至る区間で開業した。開業のために後に100形(A形)になる車両(101-150号)を50両用意した。翌月には現在の本線となる紙屋町 - 己斐間が開通。1915年(大正4年)4月に御幸橋東詰から宇品間が開通した。ただ、当時は単線でかつ御幸橋から御幸橋東詰まで徒歩連絡を行っていた。
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