巴御前の最後とは? わかりやすく解説

巴御前の最後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 14:21 UTC 版)

宇治川の戦い」の記事における「巴御前の最後」の解説

義仲挙兵時から従って来た女武者巴御前の最後は、軍記物語『平家物語』の「覚一本」で「木曾最期」の章段などで描かれている。宇治川の戦い敗れ落ち延びる義仲従い最後の7騎、5騎になって討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け自分討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後奉公でございます)」と言い大力評判敵将御田恩田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし首を切ったその後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びたところで物語から姿を消している。 『源平盛衰記』では畠山重忠との戦い描かれ、重忠に巴が何者問われ半沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方大将軍して、更に不覚の名を取らず今井樋口兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合いや義仲との別れより詳しく描写され義仲に「我去年春信濃国を出しとき妻子捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべき存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃下り、この有様人々語れ」と、自らの最後有様人々語り伝えることでその後世を弔うよう言われ戦場去っている。 『平家物語』諸本で最も古態を示すと言われる延慶本」では、幼少より義仲と共に育ち力技組打ち武芸稽古相手として義仲大力を見いだされ長じて戦にも召し使われとされる。京を落ち義仲勢が7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者左右の脇に挟みこんで絞め2人武者は頭がもげて死んだという。粟津着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなくなったとされている。

※この「巴御前の最後」の解説は、「宇治川の戦い」の解説の一部です。
「巴御前の最後」を含む「宇治川の戦い」の記事については、「宇治川の戦い」の概要を参照ください。

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