居留地および周辺の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
「神戸外国人居留地」の記事における「居留地および周辺の発展」の解説
自然海岸に近かった神戸村の海岸に新しい港の建設が進められた。1868年4月から7月(明治元年4月から5月)にかけて(旧)生田川・宇治川間の海岸に改めて4つの埠頭が建設され、さらに1871年(明治4年)に防波護岸・埠頭拡張の工事が行われた。また、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた(旧)生田川の付け替え工事(後述)は、居留地周辺の水害を防ぐだけでなく、港の中心部への土砂の流入を防ぐ効果ももたらした。後に「天然の良港」と呼ばれる神戸港の基盤はこうして整えられていった。 開港後、居留地は合理的な都市計画の下で整備され、道路や溝渠の工事が終わり南北8本・東西5本の街路からなる碁盤の目状の区画が完成したのは1872年(明治4年/5年)頃のことである。土地の競売も1873年(明治6年)2月7日までに終わった。居留地の都市計画は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された(1871年4月17日付の英字新聞「The Far East」)。一方、周辺地域は必ずしも計画的に開発されたわけではなかった。居留地の東北には外国人が経営する工場が、西には会社や銀行が開設され、北西には清国人街が形成されるといった具合にある程度傾向を帯びながらも、居留地の発展とともに周辺地域の人口が増加し、雑然と市街地が形成されていった。 開港当時、神戸村の人口は約3600人であったが、周辺の村との合併を経て1889年(明治22年)に神戸市が誕生した際には約13万4700人にまで増加した。1890年代初めには市街地が兵庫津周辺と一続きとなった。なお居留外国人数は1871年(明治3年/4年)の時点で400人余り(イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・清の5か国)であったが、1890年には2,000人を超えていた(#居留外国人数を参照)。
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