就航から洞爺丸事件まで
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「大雪丸 (初代)」の記事における「就航から洞爺丸事件まで」の解説
青森 - 函館間の所要時間は、1944年(昭和19年)4月からの翔鳳丸型とほぼ同じ下り4時間30分、上り4時間40分とした。1948年(昭和23年)11月27日の本船就航により、戦後建造に着手した車載客船4隻と車両渡船4隻全てが就航し、既に戦災復旧されていた第六青函丸も含め、車両航送のできる船は14隻となって、数の上では戦時中の12隻を超えた。しかし、事故や故障が頻発して休航も多く、1949年(昭和24年)夏までは景福丸 や徳寿丸も運航に加わっていた。 これより前の 1947年(昭和22年)10月からは、LSTを含む諸船を含めて15往復運航であったが、1949年(昭和24年)12月から旅客便5往復、貨物便13往復の計18往復となり、同年度の貨物輸送量は350万トンを突破して、1943年(昭和18年)度の実績364万トンに迫るものであった。 しかし、1951年(昭和26年)5月から1953年(昭和28年)9月までは、たびたび出現する浮流機雷への警戒のため、夜間運航中止もあったが、以後は18往復に戻されていた。それでも貨物輸送量は1951年(昭和26年)度には440万トンと戦時中の実績(1944年(昭和19年)度385万トン)を上回り、旅客輸送人員も1953年(昭和28年)度には215万人と戦時中の実績(1943年(昭和18年)度210万人)を上回った。
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