対立から追放へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:00 UTC 版)
「ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリー」の記事における「対立から追放へ」の解説
クルバンガリーは、在日タタール人を組織し、その影響力は日本の軍部にも及んだが、東京回教団内部には、その強引な手法を批判する反対派も生じていた。1933年には、タタール人活動家のガヤズ・イスハキーが来日し、「イディル・ウラル・トルコ・タタール文化協会」を設立すると、在日タタール人社会は、クルバンガリー派とイスハキー派の二派に分かれて激しく対立した。前者は陸軍、警察、民間右翼団体の、後者はトルコ共和国大使館、神戸のインド系ムスリムの支持を受けていた。この対立は、1934年2月11日に、神田区岩本町にある和泉橋倶楽部にてイスハキーが行っていた講演会をクルバンガリー派が襲撃し、多くの負傷者を出すまでにエスカレートした。在日ムスリム社会の対立解消を求める外務、陸軍、海軍の各省はこれを問題視し、クルバンガリーの追放と、その後継にアブデュルレシト・イブラヒムを据えることを決定した。 1938年5月5日に、クルバンガリーはスパイ容疑で警察に逮捕され、国外退去を求められた。クルバンガリーは、6月14日に東京を発って、大連に向かった。逮捕直後の同年5月12日には、クルバンガリーが中心となって建設を進めてきた東京モスクの竣工式が予定されていたが、クルバンガリーが出席することは叶わなかった。竣工式は、頭山満、葛生能久ら日本人の主導で進められ、イブラヒムがイマームとして礼拝を取り仕切ることとなった。在日ムスリム組織の一本化を求める陸軍の意向を受け、6月には東京回教団は解散し、イブラヒムを団長とする「東京イスラム教団」が新たに設立された。 追放後のクルバンガリーは、大連、奉天で満鉄調査部の活動に協力したが、現地のタタール人社会に溶け込むこともできず、その影響力は限られていた。妻子を東京に残したクルバンガリーは、その後も頭山らを通して東京への帰還要請を行っていたが、日本政府はこれを認めなかった。 1945年8月にソ連が対日参戦をすると、満洲にてソ連軍にセミョーノフらとともに逮捕され、1955年まで、モスクワ東方のヴラディミル監獄で収容生活を送った。釈放後は、チェリャビンスクの親類に身を寄せ、宗教指導者として余生を過ごし、1972年に死去した。
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