密告・逮捕
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1941年3月26日、ヴィルデはゲシュタポに逮捕された。グループの一員で機械工のアルベール・ガヴォーの密告によるものであった。彼はゲシュタポのスパイとして人類博物館グループに潜入し、ヴィルデの信頼を得るまでになっていた。一方、イヴォンヌ・オドンとアナトール・ルヴィツキーは、人類博物館の職員アドリアン・フェドロフスキーとその愛人フロリナ・エルーシュコフスキーの密告によってフランス警察に逮捕された。ヴィルデはサンテ刑務所、次いでフレンヌ刑務所(フランス語版)に計11か月拘留され、この間に「フレンヌ日記」および「監獄からの手紙」を書いた(これらは『日記・監獄からの手紙』として1988年に刊行された)。彼は1941年10月21日付の日記に、「死ぬことは怖くない。銃殺されることは、いわば、私の人生の論理的帰結だろう。立派に人生を終えること…」と書いている。 さらに、『レジスタンス』紙を配布していた2人の青年が逮捕され、うちの1人が25人の責任者のリストを持っていた。こうして、1942年1月からドイツ軍事裁判所で人類博物館グループの18人の裁判が始まった。罪状は、「『レジスタンス』紙を配布し、軍事情報・スパイ情報を提供することで、ライヒ(ナチス・ドイツ)の敵のために情報伝達活動を行った」というものであった。メディアは「人類博物館事件」として大々的に取り上げた。ヴィルデは、ドイツ語で答弁を行い、逆に判事を糾弾した。
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