宇和島さんさの消息
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「宇和島さんさの由来」宇和島文化協会会長高畠荗久によると、昭和29年12月、北陽「玉川」の、三味線のうまい芸妓が、宇和島に来た客に、ひき語りで歌って聞かせていたのを、現三間中教頭笹田豊が、五線譜に採譜したのが、楽譜になったはじめである。次いで昭和34年7月、服部竜太郎が民謡調査に来宇した際、故吉田繁(宇和島市丸之内一番地、宇和島集古館々長、宇和島市議会議員)の実父吉田万助(士族)が記憶をたどって歌ったのを元にして採譜したものも残っている。この楽譜を元にして、昭和41年には「ブルーファイツ・オーケストラ」が宇和島さんさをステージで演奏した。踊り方は、昭和35年頃の「みなと祭り」の時に、新田会のメンバーが踊っている。次いで昭和46年7月15日には、NHK宮田輝が来宇して「ふるさとの歌と祭り」が行われ、和霊土俵で新田会のメンバーが踊りを披露した。振付は西崎真由美である。この踊りは現在では、宮川和扇が作ったものや、藤間流の踊り、若柳流の踊り、吉村流の踊り、或は民謡団体で踊られているものなどがあり、統一されていない。それぞれの流派の特長が出ている。歌詞は一節から八節まであり、普通歌われるのは四節までの歌詞である。宇和島の民謡として、これから大いに唄いたいものである、と記述されている。
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