天野との対立・山梨県知事選への出馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:00 UTC 版)
「田邊圀男」の記事における「天野との対立・山梨県知事選への出馬」の解説
山梨県政では、1951年(昭和26年)の第二回知事選で、保革連合による支持を受けた民主党代議士の天野久が現職であった官僚出身の吉江勝保を破り、初の県人知事として当選した。天野県政では分裂していた保守派を統合して安定した政治基盤が築かれ、野呂川総合開発・新笹子トンネル・富士北麓開発など開発を重視した総合開発政策が実施されていたが、災害復旧や北富士演習場問題が懸案事項でとなっていた。県政後期には農政を巡る対立や、総合開発のため中央の自民党主流佐藤派との関係を深めていたことから党の対立構造が影響し、川島正次郎派(自民党非主流)に属した田辺は佐藤派の議員金丸信と対立していたこともあり、天野の多選反対を主張した。 1962年(昭和37年)の知事選では天野は前自民党県連会長で県農協政治連盟の星野重次を破って四選を果たした。天野県政の長期化に対し、国政でも自民党内から知事の多選反対論が噴出しており、田辺は堀内や前知事の吉江勝保らと共に天野の五選反対論を展開した。その次の知事選を控えた1967年(昭和42年)5月には日本社会党山梨県本部や農政連を中心に県政刷新連が組織され、10月の県議会議員選挙では天野派と反天野派が拮抗する状態となった。同月25日に組織された県政浄化同志会で田辺は副会長に選出され、さらにその同志会に自民党の多選反対派が合流したことにより保革連合が成立する。 刷新連の候補者選定では自民党の堀内のほか社会党の小林信一や星野重次らの名前が浮上するが、それぞれ保守派や革新派の支持が集まらず、県政浄化同志会の支持や年齢の点から田辺が候補者に選定される。田辺は、県政課題(北富士演習場の全面返還・平和利用、恩賜林開発における入会権の尊重など)に対し社会党主導で作られた刷新連の綱領や、副知事は革新派から選出することを条件に立候補を承諾した。 現職の天野は立候補の辞退を固持して自民党の支持を受けて五選を目指し第1次佐藤内閣解散に伴う総選挙と同時に行われた知事選に臨んできたが、田辺は10万票差で天野を破り、戦後の公選第三代知事に就任した。以来、1979年(昭和54年)まで3期12年務める。
※この「天野との対立・山梨県知事選への出馬」の解説は、「田邊圀男」の解説の一部です。
「天野との対立・山梨県知事選への出馬」を含む「田邊圀男」の記事については、「田邊圀男」の概要を参照ください。
- 天野との対立・山梨県知事選への出馬のページへのリンク