天皇の君主補導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 16:00 UTC 版)
明治10年(1877年)8月29日、元田永孚の提議によって西南戦争後の行財政改革の一環として発足した。一等侍補は徳大寺実則(宮内卿兼務)・吉井友実・土方久元、二等侍補は元田永孚(侍講兼務)・高崎正風、三等侍補は米田虎雄・鍋島直彬・山口正定の計8人が任じられ、11月に建野郷三が三等侍補、翌明治11年(1878年)3月には佐々木高行が一等侍補に追加され全部で10人となった。当時の明治政府の実力者であった内務卿大久保利通は、明治天皇を近代国家の主体的君主としての役目を担うことに期待し、侍補がそのために必要な君徳の培養に尽力することを期待していた。 一方、元田・佐々木・高崎らは親政の実現とその準備としての天皇への政治教育、更には実現後の補佐機関として侍補を位置づける事を企図していた。彼らは明治政府内でも保守派に属し、宮中と藩閥を中枢とする政府(府中)が分離されている現状は江戸幕府などの従来の体制と同様であり、親政を実現してこそ真に明治維新が確立されると考えていたのである。 侍補の役割を象徴するものに、侍補設置の4日後(明治10年9月2日)より開始された内廷夜話という日課である。これは夜の7時から2時間、侍補2名が当番制で天皇よりその日の出来事や相談事を訊くというものである。若い天皇が侍補の視点のみを通して内外の事象を理解するようになる危険性も孕んでいた。だが、大久保は天皇親政に一定の理解をもっており、薩摩藩以来の親友吉井が侍補に加わっていたことから、大久保と侍補らは協調関係にあり、侍補らも大久保が宮内卿を兼務して天皇の意向を政府に浸透させる構想を大久保に提言している。
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