天主・天守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:26 UTC 版)
信長・信忠時代の岐阜城 麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は巨石を立て並べた塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層の華麗なものであったという。宮上茂隆の説によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、2018年で発掘調査が一旦終了されている。 山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している。なお「由緒ある建物だから失念しないうちに」と描かれた古絵図によれば、元々4層だったものを3層に改変された跡がある。この事から、元々4層4階、または4層5階だった可能性がある。 諸説あるが、信長時代に山頂には平屋程度で天守と呼べる高層建築は無く、信忠時代に高層建築が建てられたという説もある。 復興天守(初代) 1910年(明治43年)5月15日落成。木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15mで、長良橋の古材を利用し岐阜市保勝会の手によって建てられた。内部は吹き抜けであったらしい。当時は、夜も常駐する職員が居た。日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされる。1943年(昭和18年)2月17日、失火のため焼失した。 復興天守(再建) 1956年(昭和31年)7月25日落成。鉄筋コンクリート建築3層4階建て。延べ面積461.77m²、棟高17.7m。天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書、丸岡城など参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計、大日本土木が施工した。再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県図書館に所蔵されている。ただし、建てられた天守閣は設計された物とは異なる。 3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、長良川や岐阜市街を一望する事が出来る(1階:武具の間、2階:城主の間、3階:信長公の間、4階:望楼の間)。 天守の所在地は「岐阜市天主閣18」であり、「天守」ではなく「天主」表記である。 なお、一部のウェブサイトでは「岐阜市金華山天守閣18」の表記も見られる。
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