正定寺 (古河市下大野)とは? わかりやすく解説

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正定寺 (古河市下大野)

(大野正定寺 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 15:19 UTC 版)

正定寺
所在地 茨城県古河市下大野1570
位置 北緯36度11分09.91秒 東経139度45分44.32秒 / 北緯36.1860861度 東経139.7623111度 / 36.1860861; 139.7623111座標: 北緯36度11分09.91秒 東経139度45分44.32秒 / 北緯36.1860861度 東経139.7623111度 / 36.1860861; 139.7623111
山号 證誠山(証誠山)
院号 等持院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 正和3年(1314年)あるいは応永年間(1394年 - 1428年)
開山 持阿良心あるいは良岌見日
開基 不明
正式名 証誠山等持院正定寺
證誠山等持院正定寺
法人番号 8050005005668
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正定寺(しょうじょうじ)は、茨城県古河市下大野にある浄土宗の寺院。山号を証誠山、院号を等持院という。中世には浄土宗鎮西流藤田派の檀林として、多くの学僧を擁した。近世には41世・当誉玄哲が古河城下に同名の正定寺を開山、両寺ともに古河城主・土井家の菩提寺として保護された。古河城下の正定寺と区別するために大野正定寺と呼ぶこともある。[1] [2]

歴史

創建

正和3年(1314年)、浄土宗鎮西流藤田派の学僧・持阿良心の開山[3]、あるいは応永年間(1394年 - 1428年)、同じ藤田派・良岌見日の開山[4][5]と考えられている。史料により異なっており、研究者の見解も統一されていない[6][7]

正定寺がある「大野郷」は下総下河辺荘の「野方」に属し、常陸川[8]流頭部の長井戸沼に近い。鎌倉街道中道も縦断しており、水陸交通の要衝でもあった。隣接する関戸・小堤・佐川野を含む鎌倉街道沿いの領域には、平安期鎌倉期創建の由緒を持つ寺院が集中しており、中世の早い時期から開発が進んでいたと考えられている[7]

開基は不明。『本末帳写』(正定寺文書)には源姓「園田治部太夫政定」と記されているが、源姓園田氏は諸系図類に見いだせない[7]。なお、寺の院号「等持院」は足利尊氏の院号と同じである。また江戸時代に末寺になる関戸・了覚寺が、初代鎌倉公方足利基氏大旦那としたという由緒を持つことから、足利氏との関係も推測される[9]

中世・浄土宗の檀林

室町時代には浄土宗鎮西流の一派・藤田派の檀林として発展した。檀林は近世の用語で学問所をもつ大規模な寺院である。中世の用語では「談義所」、「談所」、「談場」と呼ばれ、教線拡大の拠点となった中枢寺院である[10]

浄土宗鎮西流の関東三派は藤田派・名越派・白旗派からなる。正定寺は藤田派の学問所だけではなく、各派の交流拠点でもあった。白旗派の学僧で江戸増上寺開山の酉誉聖聡文書[11]によれば、聖聡が正定寺に立ち寄って馬を借りた際、良岌と激しい法論をしている。藤田派と白旗派との交流事例のひとつと評価される[10]。さらに正定寺歴代を記した譜脈[5]には、名越派大沢法流の僧侶名も散見されることから、名越派の影響も受けていたと考えられる[6]

『本末帳写』(正定寺文書)中の正定寺歴代譜脈における28世・岌秀は、浄土宗大本山京都知恩寺29世の岌州と同一人物とみなされている。永禄4年(1561年)、上杉謙信北条氏康に対抗するために関東に出陣した際、岌州も謙信を支持する関白近衛前久に随行し、上野厩橋城に入る。その後、前久は古河城に移るので、岌州も同行したと考えられる。このとき、正定寺に近い古河城水海城を拠点とする簗田晴助は、謙信のもとで足利藤氏古河公方に擁立し、北条氏康に抵抗していた。岌州は晴助を通じて正定寺と関わりを持ったと推定される。のちの元亀3年(1572年)から天正7年(1579年)には、布教のため東国を遍歴する。これらの岌州の活動は、大本山を争う白旗派・知恩院に対抗するため、上杉謙信や簗田晴助たちの政治力と結びつき、藤田派の教線拡大を行っていたものと考えられている[7]

戦国時代の末期、正定寺は藤田派から白旗派に転向した。天正10年(1581年)に寺に入ったとされる幡随意(幡随)が正定寺30世となるが、藤田派だった幡随意はのちに白旗派を代表する学僧になる。幡随意は岌州と異なり、北条氏照の外護のもと教線を拡大し、慶長7年(1602年)には京都・知恩寺33世となる。このときを契機として、藤田派寺院の白旗派転向が加速された[12]

のちの元禄期(1688年 - 1704年)に書かれた由緒書によれば、江戸時代の初頭、39世・良住の隠遁後に壇林が途絶したとされる。以後、京都・知恩院の門末となる[2]

近世・土井家の菩提寺

江戸時代になると、寺がある下大野村は古河藩領になった。寛永10年(1633年)、土井利勝古河城に入る。利勝は正定寺41世・当誉玄哲を招き、古河城下に同名の正定寺を創建した。利勝は当初、浄土宗「旧跡」・「浄家の道場(談義所)」である当寺をそのまま土井家の位牌所にしようと考えたが、城下から遠かったために寺号と僧侶を引き移した。以後、二つの正定寺は土井家から同様に扱われて保護される。承応3年(1654年)には、土井家により本堂山門仁王像が修復され、山林1町余畝歩が寄進されている。貞享3年(1686年)、幕府本末制度・檀林制度の整備にともない、檀林となっていた結城弘経寺の末寺に編入され、一地方寺院に位置づけられた[2]

慶長9年(1604年)、古河藩領・鳥喰村に寺領3石を認められた黒印状を受けている。その後も朱印状獲得のため、貞享4年(1687年)から延享3年(1746年)にかけて、たびたび運動した記録が残っているが、目的を果たすことはできなかった。なお、宝暦13年(1763年)には、黒印地3石を引き続き保持している[1]

近代

明治初期には檀家が300軒あった[1]

明治4年(1871年)、境外地4町9反余、650本の木を保有する寺の土地が没収され、各地の寺院と同様に官林とされた。明治8年(1875年)、正定寺住職と檀家総代から茨城県権令宛に「地所払下願」が出されている。代々の住職が植林してきたこと、周辺農地の農業用水に用いられる土地であるため、農民から申し立てがあることを理由としている。しかし、明治32年(1899年)にも同様の願書が出されており、容易には払下が実現されていないことが分かる[13]

明治12年(1879年)、檀家の寄付により、本尊の阿弥陀如来の営繕が行われた。明治22年(1889年)、玄関回廊庫裏の建て替えが行われた。明治25年(1892年)、薬師如来を祀る薬師堂を新築。疱瘡に対する霊験があったため「瘡守尊」として信仰されるようになり、現在は「瘡守稲荷」として祀られている[13]

交通

  • 鉄道
    • JR宇都宮線東北本線古河駅東口から徒歩70分(約5.5km)、タクシー15分、バス10分(丘里工業団地にて下車)さらに徒歩16分(約1.3km)、西口にて市内観光用無料レンタル自転車「コガッツ」利用可[14]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 『総和町史 通史編 近世』 398-401頁(町内の寺院・下大野村・松本剣志郎 執筆)
  2. ^ a b c 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 531-532頁(大野正定寺・内山俊身 執筆)
  3. ^ 享保年間(1716年 - 1736年)編纂の『浄土伝灯総系譜』
  4. ^ 結城弘経寺の『寿亀山本末開基史』
  5. ^ a b 結城・弘経寺の『正定寺由緒書』
  6. ^ a b 『そうわの寺院 I』 115-121頁(正定寺と浄土宗関東三派・藤本顕通 執筆)
  7. ^ a b c d 『そうわの寺院 I』 124-130頁(中世における浄土宗談義所、下大野正定寺について・内山俊身 執筆)
  8. ^ 現在の利根川下流、茨城県千葉県の県境部。中世の利根川は東京湾に接続し、現在の利根川下流は常陸川という異なる水系だった。
  9. ^ 『そうわの寺院 I』 154-157頁(中世における浄土宗談義所、下大野正定寺について・内山俊身 執筆)
  10. ^ a b 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 525-530頁(大野正定寺・内山俊身 執筆)
  11. ^ 応永24年(1417年)と推定される聖聡の瓜連常福寺文書を近世に写し取ったものが正定寺に残されている。この写しとその脱落部分に関する常福寺蔵「酉誉尊師書補闕」の検討結果による。
  12. ^ 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 530-531頁(大野正定寺・内山俊身 執筆)
  13. ^ a b 『総和町史 通史編 近代・現代』 80-82頁(正定寺における神仏分離~・高村恵美 執筆)
  14. ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式サイト 観光・歴史 古河市の観光パンフレットより

参考文献

  • 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 原始・古代・中世』 総和町、平成17年(2005年)
  • 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 近世』 総和町、平成17年(2005年)
  • 総和町史編さん委員会 編 『総和町史 通史編 近代・現代』 総和町、平成17年(2005年)
  • 総和町教育委員会・町史編さん室 編集・発行 『そうわの寺院 I』 総和町、平成4年(1992年)



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