大老職就任から晩年
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家光の死後には西の丸老中が本丸老中へ吸収され、承応2年(1653年)6月には忠清も老中に就任し、諸役と兼任する。忠清は就任と同時に老中首座として松平信綱、松平乗寿、阿部忠秋と共に4人連署体制を構成するが、翌3年(1654年)には乗寿が死去し、万治元年(1658年)閏12月29日に稲葉正則が加えられるまでは3人体制となる。明暦元年(1655年)、池田光政から光政の娘ふきと榊原政房の縁談について相談を持ちかけられている。寛文4年(1664年)には一般奉書の加判を免じられており、寛文6年(1666年)2月2日、諸国山川掟を発する1人となり、3月26日には老中奉書への加判も免じられ、大老職に就任する。保科正之や阿部忠秋が没すると権力が集中し、新たに久世広之・土屋数直・板倉重矩を加えた老中達と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、陸奥仙台藩62万石の伊達家で生じた伊達騒動(寛文事件)や、延宝年間に越後高田藩で生じた越後騒動などのお家騒動の裁定に関わった。 延宝8年(1680年)1月、上総久留里2万石を加増されて15万石となり、忠行時代の家格に復する。同年5月には家綱が死去し、8月には家綱の異母弟・綱吉が将軍宣下を受ける。12月9日には病気療養を命じられ、大老職を解任される。 翌延宝9年(1681年)2月27日に隠居し、5月19日に死去。享年58(満56歳没)。遺体は龍海院(現在の群馬県前橋市)に葬られた。戸田茂睡『御当代記』によると、綱吉は越後騒動の再裁定を行い、高田藩を改易しようとしたため忠清は反対したが、綱吉は取り合わなかったという(忠清死後の6月21日に再裁定を行い、6月26日改易)。
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