大老職就任から晩年とは? わかりやすく解説

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大老職就任から晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:39 UTC 版)

酒井忠清」の記事における「大老職就任から晩年」の解説

家光死後には西の丸老中本丸老中吸収され承応2年1653年6月には忠清も老中就任し諸役兼任する。忠清は就任同時に老中首座として松平信綱松平乗寿阿部忠秋と共に4人連署体制構成するが、翌3年1654年)には乗寿が死去し万治元年1658年)閏12月29日稲葉正則加えられるまでは3人体制となる。明暦元年1655年)、池田光政から光政の娘ふきと榊原政房縁談について相談持ちかけられている。寛文4年1664年)には一般奉書加判免じられており、寛文6年1666年2月2日諸国山川掟発する1人となり、3月26日には老中奉書への加判免じられ、大老職に就任する保科正之阿部忠秋没する権力集中し新たに久世広之土屋数直板倉重矩加えた老中と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、陸奥仙台藩62万石伊達家生じた伊達騒動寛文事件)や、延宝年間越後高田藩生じた越後騒動などのお家騒動裁定に関わった。 延宝8年1680年1月上総久留里2万石を加増されて15万石となり、忠行時代家格復する同年5月には家綱死去し8月には家綱異母弟綱吉将軍宣下を受ける。12月9日には病気療養命じられ大老職を解任される。 翌延宝9年1681年2月27日隠居し5月19日死去享年58(満56歳没)。遺体龍海院現在の群馬県前橋市)に葬られた。戸田茂睡御当代記』によると、綱吉越後騒動の再裁定行い高田藩改易ようとしたため忠清は反対したが、綱吉取り合わなかったという(忠清死後の6月21日に再裁定行い6月26日改易)。

※この「大老職就任から晩年」の解説は、「酒井忠清」の解説の一部です。
「大老職就任から晩年」を含む「酒井忠清」の記事については、「酒井忠清」の概要を参照ください。

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