大耶城の戦い(第3次、920年)
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「太祖王建の戦い」の記事における「大耶城の戦い(第3次、920年)」の解説
後百済軍の指揮官は、後百済王甄萱(キョンフォン)、軍師 崔承祐(チェ・スンウ、後百済の波珍飡)、哀述(エスル)、崔弼(チェ・ピル)、新徳(シンドク)、龔直(コン・ジク)、金摠(キム・チョル)で兵力は、10,000人以上。新羅軍の指揮官は、不明(孝宗?など3名?テロップなし。)で、兵力は大耶城に5000人弱。 後百済軍は、チェ・スンウの内側と外側から攻撃するという献策を用いて、民間人に変装したエスルの部隊をひそかに大耶城に侵入させた。後百済軍本隊が城に近づくと後方で爆発などのかく乱工作を行い、あらかじめ決めてあった合図を示して、後百済軍本隊は、城壁と城門を攻撃させた。エスルは、大耶城の後方を多数の場所から奇襲をかけてかく乱させたため、大耶城は兵力を分散して守らざるを得なかった。兵力を移動させるとエスルの伏兵がおそいかかり、四部五裂した。後百済軍は、城壁にいっせいに攻めのぼったほか、チェ・ピルを先鋒に甄萱の四子金剛(クムガン)をつけて、城門を攻撃させた。城壁の上から後百済軍に油と火矢を用いて守ろうとしたが薄い守りに城門は破られ、大耶城はついに陥落した。 被害は後百済軍不明、新羅軍は、指揮官は、戦死もしくは、自ら火をかぶって自害。兵員は、ほぼ全滅し、敗残兵は逃亡。 後百済軍は、勝ちに乗じて第一軍コンジクに臨皐郡、第二軍エスルに星山郡、第三軍にキム・チョルに居昌郡を攻めさせ、第四軍は、キョンフォン自らが率いて、大耶城以東の新羅領を奪ったが、高麗軍来援の報がとどくと引き返した。
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