大空の女神安置運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 04:42 UTC 版)
1940年(昭和15年)、陸軍航空通信学校の井戸に身を投げ、相次ぐ戦闘機事故の根絶を願った藤田多美子という女性がいた。戦時中は美談と讃えられ胸像や歌碑などが建立されたが、戦後は行方知れずとなっていた。拳骨は50年前の『朝雲新聞』に、多美子の父親が「せめて、自衛隊の飛行場の見えるところに置いてやりたい」と述べていたのを見つけ、調査を開始した。調査は難航したものの、2011年(平成23年)12月8日、平間洋一が主催する勉強会で講師として招かれた崔三然元韓国空軍大佐が学校のOBであることを知り、協力を要請。このことは2012年(平成24年)8月15日の『産経新聞』に終戦特集として掲載され、拳骨は「国のために殉じた人は等しく尊敬されなければならない。藤田さんの遺志を伝え、鎮魂してもらいたい」と述べた。崔も、拳骨の活動に対し「貴方の様なお方がいる限り日本は誇りを失いません」とエールを送った。拳骨は、『韓国人に不都合な半島の歴史』の中で一連の活動について紹介し、「(藤田多美子女史の慰霊がなされなかったことは)日本にとって不幸ではあったが、韓国の崔三然元大佐の協力により、日韓友好の新しい架け橋としての役割を担った」「(拳骨が)自虐史観を持ち、(崔氏が)反日史観をもっていたとすればこのような活動は成り立たなかったであろう。日本と韓国は自虐史観を反日史観を超越したときに、真の友情が築けるのだ」と総括した。二人は胸像が無事に現存していることを確認し、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地への安置された。 その後、2013年(平成25年)4月13日に土浦市にあるホテルマロウド筑波にて日本郷友連盟を主催とする「大空の女神・藤田多美子鎮魂式」が挙行され、寺島泰三元統合幕僚会議議長や藤田幸生元海上幕僚長、櫻木正朋霞ヶ浦駐屯地司令など多くの人々が参列し、その精神の顕彰をおこなった。
※この「大空の女神安置運動」の解説は、「拳骨拓史」の解説の一部です。
「大空の女神安置運動」を含む「拳骨拓史」の記事については、「拳骨拓史」の概要を参照ください。
- 大空の女神安置運動のページへのリンク