大私鉄の分割と日本国有鉄道の発足
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「日本の鉄道史」の記事における「大私鉄の分割と日本国有鉄道の発足」の解説
戦後GHQの指示により財閥解体が行われたが、鉄道分野でもこの流れに乗って戦時中に大合併した私鉄が1947年から分割され始めた。東京地区では大東急が東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄の4社に分かれた。大阪地区では近畿日本鉄道から南海電気鉄道が分離し、京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分かれた。一方、名古屋鉄道と西日本鉄道は戦前から戦中にかけて多数の私鉄が合併してできた会社だが、戦後もそのままの形が受け継がれた。 国鉄は鉄道省が直接管轄していたが、運輸通信省、運輸省を経て1949年4月1日に運輸大臣が監督権を有する公共企業体「日本国有鉄道」となった。この結果、国鉄の職員に対しては「国家公務員法」ではなく「公共企業体等労働基本法」が適用されることになる。この中途半端な体制は「一応企業の形になっているため国庫からの補助を受けにくいが、政治家の介入は阻めない」ものであり、将来大幅な赤字を生む禍根となった。同じ年に国鉄は行政機関職員定員法により当時598,157人いた職員を503,072人に減らすことが求められた。9万5千人に及ぶ人員整理(いわゆる首切り)は困難をきわめ、1回目の免職者が発表された7月3日の3日後の6日に当時の下山総裁が常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間で死体となって発見される事件(下山事件)に繋がった。下山総裁の死因については、当時から自殺説と他殺説があり、真相はいまだに謎である。不明瞭な事件は続いて、7月15日には三鷹事件(死者6名)、8月16日には松川事件(死者3名)が起こった。いずれも列車事故であるが、人為的な犯罪の可能性が高いとみなされ、この三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件と呼ばれている。
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