夢のファンタジーワールド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 21:46 UTC 版)
「シンデレラ (1950年の映画)」の記事における「夢のファンタジーワールド」の解説
1992年のリバイバル公開は、東映系の企画『夢のファンタジーワールド』のメイン作品として上映された。これは日本での6回目の劇場公開であった。『シンデレラ』のほか、『ミッキーのたつまき騒動』、日本のアニメ『きんぎょ注意報!』『キャンディ・キャンディ』の4本立て公開であった。 1992年10月でディズニーとワーナー・ブラザーズ日本支社の契約が切れ、その後は作品ごとに配給を検討することに決まった。そのような背景があり、1991年9月に日本で『ディズニー・フェスティバル』が開催された時に、ジェフリー・カッツェンバーグウォルト・ディズニー・スタジオ会長、リチャード・フランク同社社長らディズニー・グループの幹部が来日し、岡田茂映連会長に表敬訪問に行った。岡田は1980年と1981年の夏休みの「東映まんがまつり」枠で、ディズニー作品を上映した実績があることから、ディズニー側から東映とディズニーのアニメをセットにしないかと申し入れがあり、『シンデレラ』を上映することで話がまとまった。ただ「東映まんがまつり」枠でディズニーのアニメを入れるとディズニーに儲けを半分持っていかれることから、東映洋画部で「夢のファンタジーワールド」という別枠を作り、上記の東映の短編アニメと合わせて配給を決めた。この配給をワーナーと折衝し、120館程度で上映を予定したが、岡田が東映と東急レクリエーションの社長を兼任していたことから、当時岡田が積極的に推進していたビデオシアターをこのうち系列の10数館で上映を予定した。するとディズニー側がこれを拒否。ビデオシアターはスーパーやショッピングセンターの中が殆どで席数も100前後で当然小さいが、小さい子供連れだと新宿や銀座まで行かずに自宅の近所で観たい人が多く、実際に儲かっていてアニメ配給の約3%を占めていた。東映は「ディズニーは日本のマーケット事情を知らない」と三度に渡り、詳細をまとめてワーナー日本支社を通じて、ディズニー側に送ったが、なぜ拒否するのかの理由を解答してくれず、ダメの一点張りで時間切れとなり、ビデオシアターは全部キャンセルし、劇場のみの110館で上映した。
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