多門筆記について
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多門が著したと伝えられる「多門筆記」には、多門が「吉良はどうなるのか」と聞きすがる浅野に「老人なので長くは持たない」と声をかけるなどして思いやった。さらに切腹に当たり、正検死役の庄田安利が大名の切腹の場にふさわしくない庭先でやらせようとしたのに対して、多門ともう一人の副検死役大久保忠鎮はその処置に抗議したのに、庄田は激怒してまともに取り合わなかったとして批判している。また、最期に一目と望む長矩の寵臣片岡高房を自分の取り成しで主君長矩に目通しを許可させたとも記されている。 ただし、これらの出来事は多門の著作によるものではなく後世に別人が書いたとする説が有力で、赤穂側に肩入れし、文飾や美化が多く見られる。 江戸文化研究家の佐藤孔亮はタ門の忠臣蔵に関する逸話を「読めば読むほど作り事めいて見える」「(多門は)あまりにもかっこよすぎないか。そしてウソっぽくないか」と評価した上で、多門の宝永元年の小普請入りは、江戸城にも火が及ぶなどしたその近年の火災の責任を負うたものであり、多門にとっては挫折であったこと、時間だけはある失意の環境の中で自分の輝いていた時代を「覚書」として書くうちに「文中の世界で自分はどんどんヒーローになって」いったのではないか、と推測している。 当時の柳沢出羽守や仙石伯耆守を(柳沢)美濃守、(仙石)丹後守と書いてあったり、梶川輿惣兵衛を梶川与三兵衛と書いてあるなど名前の誤記が多い。「梶川与三兵衛」は宝永元年(1704年)頃成立の『介石記』と同じ誤記。 浅野長矩の辞世として『多門伝八郎覚書』に書かれた「風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん」は、宝永二年七月(1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家の著作とされている『播磨椙原』などにある「風さそふ 花よりも亦 われは猶 春の名残を いかにとかせむ」に酷似している。『赤穂浪士の実像』(谷口眞子著・吉川弘文館)では、このような調査もせずに無批判に『多門伝八郎覚書』を参考にしていることから、批判も多い。
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