埒免古墳の特徴と古墳時代の相模
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 01:09 UTC 版)
「埒免古墳」の記事における「埒免古墳の特徴と古墳時代の相模」の解説
埒免古墳は銀装の装飾大刀や金銅製馬具といった出土品の内容や古墳の規模から、近くに存在する登尾山古墳とともに、6世紀末から7世紀初頭の地域を代表する古墳であると考えられ、被葬者としては相武国造が想定されている。 しかし、同時期の関東地方の状況を見てみると、上総国では金鈴塚古墳や三条塚古墳、武蔵国では中の山古墳や小見真観寺古墳など、各地で埒免古墳を遥かに上回る規模の古墳が造営されている。埒免古墳が6世紀末から7世紀初頭における最大級の古墳というのは、関東地方の中では見劣りするのは否めない。 もともと相模地域は古墳時代を通して古墳の造営が比較的低調で、古墳時代前期の3世紀末から4世紀にかけて海老名市の秋葉山古墳群と逗子市と葉山町の境にある長柄桜山古墳群などが造営された後、古墳時代中期の5世紀には、初頭に海老名市の瓢箪山古墳などが造営されたが、その後前方後円墳の造営はいったん途絶え、小型の方墳や円墳の造営が散発的に見られるのみになる。その理由としては自然災害などによる環境の悪化と捉える説と、古墳時代中期に大型古墳の築造が見られる上総国や上野国などとは違い、前方後円墳の築造が必要とされない社会が成立していたとの説がある。 関東地方のほぼ全域で前方後円墳の築造が活発化する6世紀後半になると、相模でも部分的に前方後円墳が復活するが、三浦半島東部の大津古墳群を除くと前方後円墳の復活は一時的なもので、大津古墳群を含めて最大でも墳丘長が50メートル以下という小型のものであった。そして相模では一時的な前方後円墳復活後には主に円墳が造営された。しかし古墳の規模の貧弱さとは異なり、銀装の装飾大刀や金銅製馬具といった埒免古墳の副葬品でも見られるように、副葬品については関東地方の他地域と比較してさほど見劣りするわけではない。 埒免古墳の出土品はまた、ヤマト王権との密接な繋がりが想定される内容である。相模では古墳時代中期以降、古墳の造営が低調なまま古墳時代後期、そして終末期を迎えたということは、当時の相模の社会が他の地域とは異なり、古墳の築造とその視覚的な効果が重要視されない社会であったことが想定される。そしてその原因としては埒免古墳の出土品にも現れているように、畿内方面から見て、関東地方への入り口にあたる相模では、早い時期からヤマト王権の勢力が浸透し、密接な関係が築かれたことによるとの説がある。関東地方の他の地域では、地域の首長が大型の前方後円墳の築造を行う社会が続く中、相模では地域の首長がいち早くヤマト王権の官僚的色彩を帯びることになり、その結果として早い時期から前方後円墳の築造が必要とされる社会からの転換がなされたと考えられる。 また一方では相模地方は畿内から関東、東北地方へ向かうメインルートから外れたため、畿内からの直接的な影響力を受けなくなった結果、前方後円墳の築造が行われなくなったとの説も唱えられている。
※この「埒免古墳の特徴と古墳時代の相模」の解説は、「埒免古墳」の解説の一部です。
「埒免古墳の特徴と古墳時代の相模」を含む「埒免古墳」の記事については、「埒免古墳」の概要を参照ください。
- 埒免古墳の特徴と古墳時代の相模のページへのリンク