地誌の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/23 13:26 UTC 版)
江戸中期までの地誌に記される堀の名称とその由来についての伝承はおよそ以下の通りである。 1)博多南縁の堀を「房州堀」とし、その由来が大友家家臣、臼杵安房守鑑続の構築によるとする伝承で、「筑前国続風土記」(1703年) に言及される。 2)博多南縁の堀のうち、中央部分と西側部分を「宗也堀」とし、その由来が徳永宗也の構築によるとする伝承で、「博多古説拾遺」(1736年) 「博多始之事」(1747年)に言及される。「博多始之事」にはまた、「一説に中央部分を房州堀というが、これは徳永宗也が掘ったもので宗也堀という」と記す箇所が別にある。 3)博多南縁の堀のうち、東側部分を大屋(フトヤ)堀、中央部分を宗也堀(あるいは徳永宗也が掘った堀)、西側部分(あるいは中央部分から西側部分にかけて)を房州堀とする伝承があり、「博多記」(1723年)、「覇家台」などに記される。 東側部分については、中世の絵図に描かれており、中世まで遡るのは明らかであるが、中央部分・西側部分については、その活躍した時期が全く異なる二人の人物に焦点があてられる。臼杵鑑続と徳永宗也である。臼杵鑑続は戦国大名大友家家臣であり、大友氏-博多津御取次(加判衆)-志摩郡代-博多代官という支配機構を通して博多に権限を及ぼしていた。したがって、臼杵鑑続が博多南縁の堀を掘ったとしても不自然ではなく、その時期は戦国期となる。一方、徳永宗也は黒田長政によって博多町政の中枢に据えられた人物であり、博多東縁の川土手普請、博多商人の渡航朱印状獲得、博多の公役・五人組制度などについて長政の指示を受けている。徳永宗也が堀を掘ったとすれば、既存の堀を改修・拡張・整備するなどした、あるいは新規に堀を築造したと考えられ、その時期は近世初頭ということになる。
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