地理的一体性がない時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:38 UTC 版)
東海道の足柄関(箱根峠)から東の国 律令制度下の五畿七道の区分では、「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」である上野国と下野国が東山道に属し、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」である相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国が東海道に属していた。 但し、武蔵国は沿岸国ではあるが、東海道に転属したのは770年以後であり、それ以前の武蔵国は東山道に属していた。これは、『日本書紀』の安閑天皇紀に武蔵国造の内紛に後の上野国の豪族である上毛野国造が直接介入したとあることから、令制国成立当初には武蔵国が未だ上野国の影響下にあったからではないかと言われている。 当時の国府所在地を見ると、武蔵国においては甲府盆地から関東平野に出た最初の平地である武蔵府中に、相模国、安房国、上総国、下総国、常陸国では、箱根・足柄を越えて関東に入ってすぐ相模川手前の小田原・大磯・平塚付近、相模湾沿いに進んで三浦半島を渡り内房を南下した三芳、内房を北上してすぐの市原、沿岸にさらに北上した太日川手前の市川、香取海を渡った対岸の石岡(旧称:常陸府中)、そして上野国、下野国では碓氷峠を越えて関東平野に出た最初の平地である前橋、足尾山地の南端を回って毛野川手前の栃木という風に置かれていた。つまり、東山道グループの上野国・下野国、内陸グループの武蔵国、東海道グループの相模国・上総国・安房国・下総国・常陸国と分かれていた。 五畿七道の国府は、下行する貴族や官僚の利便性が良く、防御や水利の良い土地に置かれた。また、当時の統治体制は、大和王権に近しい京の権力者が日本各地に領地を私有し統治する構造であったため、南関東・関東地方も同様に、全体としての地理的一体性がなく、分割統治されていた。 また、律令時代の南関東は流刑における遠流の地であったため、遠隔地であったにも関らず比較的身分の高い人物が土着し、地域文化やその後の統治体制などに大きな影響を与えた事例も見受けられる。
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