地勢的情勢とトゥアレグの反乱
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「マリ北部紛争 (2012年)」の記事における「地勢的情勢とトゥアレグの反乱」の解説
トゥアレグ族はベルベル系語族に属し、その一般な人口を評価するのは難しく、推定で周辺に約150万人いると見られ、分布状況はマリに55万人、ニジェールに80万人、アルジェリアとモロッコに50万人、そして残りがブルキナファソやリビアに居住しているとみられる。 この対立は一般に一連の反乱騒動のうち「トゥアレグ反乱」と呼ばれ、トゥアレグ人とマリおよびニジェール政府との間で継続する紛争である。 以下に1916年以降発生した主な紛争を列挙する。 1916年から1917年にニジェールで起きたカオセン反乱(Kaocen)で、1958年からはアザワド大衆運動(Mouvement populaire de l'Azawad、MPA)がトゥアレグ国憲法を主張している。 トゥアレグ反乱 (1962年 - 1964年)(fr:Rébellion touarègue de 1962-1964、en:Tuareg rebellion (1962–64))は「最初のトゥアレグ反乱」と呼ばれ、これはマリ軍によって強硬に鎮圧される。また、1970年代の干魃の影響を受けたトゥアレグ人はアルジェリアとリビアに避難した若者達はキャンプで訓練を受け、軍に募集されている。1988年にはアザワド解放大衆運動(Mouvement populaire de libération de l'Azawad、MPLA)が創設される。 トゥアレグ反乱 (1990年 - 1995年)(fr:Rébellion touarègue de 1990-1995、en:Tuareg rebellion (1990–95))はマリとニジェールで1990年に発生し、2年前にはアザワド解放大衆運動(Mouvement populaire de libération de l'Azawad)が創設されている。マリは紛争初期(1990年10月から12月)で1991年にタマンラセット協定(fr:Accords de Tamanrasset en 1991)の成立にこぎつけ、1992年に国家協定が成立する。しかし、戦闘は決定的な終わりを見せなかった。紛争は1994年から1995年にかけて再燃し、1996年3月27日にようやくトンブクトゥにて和平交渉が成立し、その間にトゥアレグ反乱軍は使用していた武器3,000を破棄した。 2006年5月23日にはマリにて小規模なトゥアレグ反乱が起き、2006年7月4日にアルジェ協定(fr:Accords d'Alger (2006))が調印される。 トゥアレグ反乱 (2007年 - 2009年)(fr:Rébellion touarègue de 2007-2009、en:Tuareg rebellion (2007–09))がマリとニジェールにて発生する。
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