国際航路から北極海航路へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 03:33 UTC 版)
「セブモルプーチ」の記事における「国際航路から北極海航路へ」の解説
就役後の1989年1月、セブモルプーチは地中海を通過し沿海地方へと向かったが、同地方の主要港(ウラジオストク、ナホトカ、ボストチヌイ、マガダン)で入港に対する抗議活動が行われ、港湾労働者が積み下ろし作業への従事を拒否したり、市議会が港外への退去を決議する事態に陥った。これらの理由として、グラスノスチでチェルノブイリ原子力発電所事故やアルメニア地震後に伴うメツァモール原子力発電所の閉鎖などの詳細が大々的に報じられたほか、海事省が機関紙にアルクティカ級砕氷船「ロシア」で起きた4分の非常事態を大きく報じた事が挙げられる。結局、セブモルプーチは1989年3月13日にウラジオストクへの入港が許可された。ムルマンスク海運会社(英語版)はセブモルプーチを当初予定されていた北極海航路ではなく、ウラジオストクとカナダのバンクーバーを結ぶ国際航路へ就航させようとした。北極海航路の貨物量が予想以上に少なく、1980年代だけでも200万 tに過ぎなかったためである。しかし、バンクーバー市当局は原子炉の安全性が確保されていないことを理由に寄港の許可を出さず、この計画は頓挫した。その後、セブモルプーチはオデッサ - ベトナム - ウラジオストク - 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国際航路に就役した。セブモルプーチの運航コストは1日で9万ドルにも及び、就役当初の数年間は、採算を度外視した運航を余儀なくされた。 セブモルプーチは1992年に最後の国際航路の航海を行い、1993年に本来の航路であるムルマンスク - ドゥディンカ間の貨物航路に就役した。1990年代に入ると貨物量はさらに減少し、1990年代後半の貨物量は25万 tまで減少した。セブモルプーチは1994年に最初の核燃料交換を行ったが、ムルマンスク海運会社の資金不足で1998年に係留されてからは、2001年に2回目の核燃料交換が行われるまでムルマンスクで係留されたままだった。2001年に核燃料が交換されると、セブモルプーチは元のムルマンスク - ドゥディンカ航路に復帰した。
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