国制危機であったか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 04:08 UTC 版)
女王の行動が国制を揺るがすものであったかどうかは意見が分かれている。 当時のマスメディアは女王の行動を「国制を覆す行為」と批判し、女王の気まぐれを諌める夫が必要との論調が多かったという。 スタンリー・ワイントラウブ(英語版)は「君主に仕える大臣は法律が定める地位に任じる人物について、その者が女王の身近に侍ることがふさわしくないことを知り得た時、その任官を否認する権限を持つというのが憲法上の周知の原則」というクロッカーの主張を引き合いに出しつつ、「慣例を顧みれば、宮中の人事は女王の私的人事ではなく、政府内の勢力を反映されてしかるべきだった。女王がそれを知っていたとすれば、伝統通りに事が運ぶのを拒否する彼女の態度は、ピールを引っこませた後の空白をメルバーンに埋めさせる口実でしかなかった」と論じている。 リットン・ストレイチイは「この問題は複雑であり、前例のないことだった。女官人事が首相の意思に従わねばならないという憲法上の不文律ができたのはこの事件の後のことである」とし、事件のさなかにメルバーン卿が書簡で女王に行った助言(「陛下個人の事柄であり、陛下のご希望通りに主張なさるべきだ。しかしもしサー・ロバートが譲歩できなければ、拒絶して交渉を長引かせるのはいいことではない」)を適切な物と支持している。 枢密院書記官長(英語版)チャールズ・グレヴィル(英語版)は、「知り合いが皆無だった女王はメルバーンが推挙する夫人なら誰でも二つ返事で受け入れるつもりでいた。彼もその時点で女王の家中を政治的にみて寄り合い所帯とすることを避けて、ホイッグ一本やりで固めるよう配慮するべきだった」、「宮中人事を操りピール政権を阻止したメルバーン卿が非国制的な危険を犯した」と主張している。 事件より60年後、ヴィクトリア女王自身は侍従サー・アーサー・ビッゲ(英語版)(後のスタムファーダム男爵)との会話の中で「あの頃の私は非常に若かった。同じような事態が再びあったなら、私は違う行動をとったでしょう」と当時を振り返っている。 君塚直隆は「18世紀以来の慣習として、政権党が交代する場合には宮廷内の人事も一新されるのが常だった」として女王に非があると論じている。
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