国制の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 04:04 UTC 版)
「ジョージ3世 (イギリス王)」の記事における「国制の危機」の解説
1782年にノース卿内閣が倒れたことで、ホイッグ党のロッキンガム侯爵が再度首相に就任したが、彼は数か月後に死亡した。ジョージ3世は後任にシェルバーン伯爵を任命した。しかし、チャールズ・ジェームズ・フォックスは入閣を拒否、ポートランド公爵の首相任命を要求した。1783年、庶民院はシェルバーン内閣の総辞職を迫ることに成功、フォックス=ノース連合内閣が後を継いだ。この内閣において、ポートランド公は首相に就任、フォックスとノース卿はそれぞれ外務大臣と内務大臣として入閣した。 ジョージ3世は政治的でも人格的でもフォックスを激しく嫌悪した。彼はフォックスを無節操な人で王太子に悪影響を与えていると考えた。ジョージ3世は嫌悪している閣僚を任命しなければならないことを苦痛に感じたが、ポートランド公爵内閣は庶民院で多数派をなし、容易く罷免することはできなかった。政府がインド政府の改革案として政治権力をイギリス東インド会社から議会が任命する代表に転移させるインド法案を提出したことはジョージ3世の不興をさらに買った。ジョージ3世も東インド会社への支配を強めたかったが、議会が提案した代表は全てフォックスの政治盟友であった。法案が庶民院を通過した直後、ジョージ3世はテンプル伯爵に自分はインド法案に賛成票を投じた全ての貴族を敵とみなすことを貴族院に通知させた。インド法案は貴族院に否決され、3日後にはポートランド公爵内閣が罷免され、小ピットが首相に就任、テンプル伯爵も国務大臣として入閣した。1783年12月17日、議会は国王による議会の投票への介入を「重罪」として糾弾することを議決、テンプル伯爵は辞任を余儀なくされた。テンプル伯の辞任は政府を不安定にさせ、3か月後には政府が議会での多数派の座を失い、議会は解散された。直後の1784年イギリス総選挙により、小ピットは強い信任を受けた。
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