国内政治への関与
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「プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官)」の記事における「国内政治への関与」の解説
クラッススの国内政治に対する姿勢に関しては歴史家の間で一致を見ていない。ある時点まで、ローマ内で生じていた内紛にクラッススは関心を持っていなかったようである。ユグルタ戦争、アラウシオの戦いでの大敗北、裁判制度の変更、サトゥルニヌスの公有地法等に対するクラッススの関与について、資料は何も述べていない。紀元前90年代に発生した重要事項に関しても何ら関与しておらず、護民官マルクス・リウィウス・ドルススの改革に対する姿勢も分からない。監察官任期完了後の第一次ミトリダテス戦争に参加したかも分からない。おそらく、クラッススはローマの国内政治紛争からは距離を置いていたと思われる。E. バディアンはクラッススを「国内政治には熱心ではなく、その名誉は軍事的成功によるものである」としている。 にも関わらず、バディアンはクラッススは長期に渡ってガイウス・マリウスを支持していたと考える。クラッススの妻の親族の一人が、マリウスの政敵であったルキウス・コルネリウス・スッラにプロスクリプティオ(国家の敵)として処刑されていることも、この関係を裏付けることになるかもしれない。しかし、紀元前90年代後半には、クラッススは反マリウス派に転向する。バディアンによれば、この転向は同盟市戦争のレガトゥスの一人にクラッススの名前があることで裏付けられる。クラッススは執政官ルキウス・ユリウス・カエサルの下で、マリウスの政敵であったスッラやカトゥルスと共に参加しているが、マリウスはクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ(小カエピオ)と共に、もう一人の執政官プブリウス・ルティリウス・ルプスのレガトゥスとなっていた。 A. ワードは、クラッススはその政治活動を開始した当初からオプティマテス(門閥派)であったと仮定している。ワードはクラッススの姿勢を護民官時代、サトゥルニヌス問題への関与、ルキウス・ユリウス・カエサルとの関係において考察している。 他方リウビモワは、バディアンの説は支持できないとする。クラッススが結婚したのは紀元前110年代であり、マリウスが台頭する前である。彼女はまた、クラッススのリキニウス法への関与とサトゥルニヌスとの対立もなかったとする。ルキウス・ユリウス・カエサルがクラッススをレガトゥスとしたのは、単に彼の軍事能力が評価されたためである。クラッスス、ローマ内部の紛争には参加しようとせず、どちらかの側に加担したのは「軍事力が内政の決定要因」となったときのみであった。 紀元前87年、ローマで再び対立が先鋭化した。執政官の一人であるルキウス・コルネリウス・キンナは、新しくローマ市民となった旧同盟市の人々を全トリブスに分配するという法案を提出した。同僚執政官のグナエウス・オクタウィウスはこれに反対し、また元老院の支持も得た。やがて市街戦となりキンナは敗北、ローマを脱出して軍を編成した。また数年前にローマから追放されていたマリウスと合流した。この危機に際して、クラッススはオクタウィウスのレガトゥスとなり、ローマ防衛軍の司令官の一人となった。おそらく、クラッススはヤニクルムの丘を占拠していたマリウス派を攻撃する任務を実施したと思われる。クラッススはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスに敵と妥協せず戦うように説得したが、マリウスが戻るとローマはマリウスに委託された。
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