国会議事堂と建築家とは? わかりやすく解説

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国会議事堂と建築家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:02 UTC 版)

国会議事堂」の記事における「国会議事堂と建築家」の解説

ヘルマン・エンデヴィルヘルム・ベックマン - ドイツの建築家。官庁集中計画一環議事堂設計行った実施されなかった。 松崎万長 - 内閣臨時建築局工事部長を務めた吉井茂則 - 内閣臨時建築局技師外国人技師とともに第一次第二次議事堂設計担当したその後内務省技師逓信省技師などを歴任)。 妻木頼黄 - 広島の仮議事堂設計日露戦争後本建築建設機運高まり1910年明治43年)頃、臨時建築部本建築設計案をまとめた。建設延期になったあと、1913年大正2年)に官職辞した辰野金吾 - 東京帝国大学(現:東京大学教授経て東京・大阪に建築設計事務所開設建築学会会長長く務めた1908年明治41年)に「議院建築方法に就て」を公表し議事堂設計公募実施するよう、建築学会中心に論陣張った1918年大正7年開催議事堂建築設計競技では審査員務め同年逝去武田五一 - 東京帝国大学助教授京都帝国大学教授などを歴任1908年明治41年)、議院建築研究のため、矢橋賢吉とともに欧米視察嘱託として議事堂設計に関わった。建築史家鈴木博之武田設計した伊藤博文銅像台座神戸市)と議事堂ドームデザイン関連論じている(講談社現代新書日本地霊』など)。 矢橋賢吉 - 大蔵省技師妻木の跡を継いで国会議事堂設計をまとめた中心人物1927年昭和2年の上棟式直後逝去大熊喜邦 - 大蔵省技師吉武東里とともに実質的な設計に当ったと言われる矢橋の跡を継ぎ国会議事堂建設進めた渡辺福三 - 宮内省内匠寮技手内匠寮職員有志1918年大正7年開催議事堂建築設計競技参加し渡辺の名で応募した案が1等当選した吉武東里 - 宮内省内匠寮技手設計競技後に大蔵省技師大熊とともに実質的な設計に当ったと言われる下田菊太郎 - 建築設計競技結果批判し帝冠併合式提案した在野建築家

※この「国会議事堂と建築家」の解説は、「国会議事堂」の解説の一部です。
「国会議事堂と建築家」を含む「国会議事堂」の記事については、「国会議事堂」の概要を参照ください。

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