国会議員から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 15:07 UTC 版)
こうして長州閥の地元を押さえた吉富は明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に当選して国会議員となり、第2回には落選するものの、第3回、第4回の衆議院議員選挙にも当選する。しかし県政の大物としてふるまってはきたが、中央政界での経験に乏しい吉富は国会議員としては政府を支持するだけで特に目立った活動はしていない。中央では吉富は井上の股肱あるいは陣笠議員と見なされて一人前の政治家としては見られていなかったのであろう。吉富は国会議員としては目立った活動はしていないが、井上・伊藤博文・山縣有朋らは山口に帰郷するとしばしば吉富を訪ねている。吉富も県の情報を細かく彼らに報告していたという。井上・伊藤・山県らは吉富らが地元をがっちりと押さえているので安心して中央政界で活躍することが出来た。 長州閥では3尊4将軍という言葉が使われていた。3尊は井上・伊藤・山県であり、4将軍は山口にあって長州閥を支えた歴代県会議長である。吉富は出身の矢原村から「矢原将軍」と言われ、他は第2代県会議長で第2回衆議院議員総選挙で吉富を破った古谷新作(出身地から華城将軍)、第4・6代議長の滝口吉良(号から明城将軍)、第5・10代議長の硲俊聡(出身地から伊陸将軍)、これに第3代議長の雑賀敬二郎を加えた山口県会議長たちを中心に長州閥の権力基盤は保持されていた。 明治33年(1900年)、伊藤が組織した立憲政友会創立では吉富は立憲政友党山口支部幹事についている。晩年も山口県政の大物として各種の団体の名誉職を務め、防長新聞の社長も死ぬまで務めていた。 大正3年(1914年)没、葬儀は参列者2000人を数えたという。享年78。
※この「国会議員から晩年」の解説は、「吉富簡一」の解説の一部です。
「国会議員から晩年」を含む「吉富簡一」の記事については、「吉富簡一」の概要を参照ください。
- 国会議員から晩年のページへのリンク