困ったときのやなせさんとは? わかりやすく解説

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困ったときのやなせさん

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:13 UTC 版)

やなせたかし」の記事における「困ったときのやなせさん」の解説

1953年独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体徐々に減っていく。1964年NHKの『まんが学校』に講師として3年レギュラー出演したり、その翌年にまんがの入門書執筆するなど、大人漫画ナンセンス漫画復興取り組み1967年には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞受賞したものの、1960年代後半本当にきつかったという。 漫画家としての仕事激減したやなせだったが、舞台美術制作放送作家などその他の仕事オファー次々と舞い込むようになり、生活的困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」。この時期にはコネクション繋がり繋がって作品生まれヒットに至るという現象2度起きている。 1960年永六輔作演出ミュージカル見上げてごらん夜の星を」の舞台美術手掛けた際に、作曲家いずみたく知り合い、翌1961年に『手のひらを太陽に』を作詞。同曲は教科書載るほどのスタンダードな曲となっている。 1969年虫プロダクション劇場アニメ千夜一夜物語制作の際に、エロチック路線求めていた手塚治虫は、やなせの漫画気に入り美術監督として招き入れた同作ヒットしたお礼として、手塚ポケットマネーで、やなせが1967年手掛けたラジオドラマやさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞同作はやなせの代表作のひとつとなっている。

※この「困ったときのやなせさん」の解説は、「やなせたかし」の解説の一部です。
「困ったときのやなせさん」を含む「やなせたかし」の記事については、「やなせたかし」の概要を参照ください。

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