四十瀬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 02:16 UTC 版)
倉敷市中心市街地の西方、大高地域内の北西にある南北に長い郊外の地区で、明治初期まで窪屋郡四十瀬村(しじゅうせそん)と称した。元は16世紀後半の天正年間に干拓された新田で、現在は廃川となっている東高梁川の旧東岸地域である。 かつては海域で、中世後期までは旧東高梁川の河口沖であった。その頃になると、高梁川の堆積作用により干潮時に干潟が広がるようになり、川瀬が幾つも生まれた。これが四十瀬の地名の由来とされる。天正年間に岡山城主の宇喜多秀家が干拓し新田開発、窪屋郡四十瀬村と名乗るようになった。その後、元和年間に新たに前新田、寛永6年に外新田を開墾し、両新田を併せて四十瀬新田村(しじゅうせしんでんそん)とした。四十瀬新田村は現在の西富井・東富井にあたる(後述)。 江戸時代、四十瀬村は備前岡山藩の所領となり、そのまま幕末に至った。石高は335石8斗。 付近一帯は排水良好な砂質土壌で、近郊野菜・果実(特にスイカなど)の産地であったが、旧国道2号や岡山県道396号酒津中島線の建設により市街化が著しく進行し、農地の減少が進んだ。旧東高梁川廃川地の一部は倉敷市運動公園として整備されている。地区内北部を東西にJR山陽本線と水島臨海鉄道、さらに旧国道2号が通過し、また水島臨海鉄道球場前駅がある。
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