名称と場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:01 UTC 版)
「ニコポリス・アド・イストルム」の記事における「名称と場所」の解説
古代の都市名によく見られるニコポリス (ギリシア語: Νικόπολις) とは、勝利の女神ニケに都市を意味するポリスが合わさって出来たラテン語名 Nicopolis である。ニコポリス・アド・イストルム (Nicopolis ad Istrum) の名称は、「ドナウ川の都市」を意味する。Ister はドナウ川の下流部分の古い名称である。しかし、この都市はドナウ川沿いではなく、ドナウ川の南約30kmにあるドナウ川支流のヤントラ川付近に位置している。しかし、建設当時は、「セクサギンタ・プリスタ (60の船の町)」の市議会と市民がセプティミウス・セウェルス帝の像を建てた場所まで、ドナウ川の広大な流域が広がっていた可能性がある。 公式には、この都市の名称はウルピア(Ulpia)であり、トラヤヌス帝の氏族名であるウルピウス氏族から名付けられている。クラウディオス・プトレマイオスが150年に著書『ゲオグラフィア』で書いた通り、この都市は当初、 Nicopolis ad H(a)emum と呼ばれていた。Hemus または Haemus は、バルカン山脈のラテン語名である。後に都市名に付け加えられた ad Istrum の名称の方が一般的になってしまった。他の別名として Nicopolis ad Iatrum (ヤントラ川沿いのニコポリス)がある。この都市は、 Nicopolis ad Danubium urbs とも名づけられている。 公用語は古代ギリシア語であった。この都市の住民の古代ギリシア語による呼び名は、ニコポリタイ (Nikopolitai) またはニコポレイタイ (Nikopoleitai) ・プロス・イストロン (pros Istron) である。2世紀後半または3世紀前半に編集され、ディオクレティアヌス帝 (在位:284年-305年) の治世中に最終的に改訂されたポイティンガー図では、ニコポリス・アド・イストルムの都市名がニコポリストロ (Nicopolistro) と短縮された名称になっている。 トルコ語の名称はEski Nikup (古ニコポリス) である。かつての都市があった場所は500年間オスマン・トルコ帝国の領有化にあった。ニコポリス・アド・イストルムの古代の都市名の、中世のトルコ語における転写がNikjupである。この名前が現在の、近隣の村ニキュープに引き継がれている。 更に西にあるブルガリアのドナウ川沿いの都市ニコポルとニコポリス・アド・イストルムとを混同してはならない。 都市はRositsa (ロシッツァ)川の左岸にある段丘にあり、そこから6km 下るとヤントラ川との合流点となる。現在、ニコポリス・アド・イストルムの遺跡は、ヴェリコ・タルノヴォからルセまでの道 (E85) 沿いにある。道路がロシッツァ川を渡って橋を渡った直後に、21.55 ヘクタールの面積の発掘現場がある。この場所は考古学用保護区で、春から秋にかけて観光客に開放されている。
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