名称と実体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:22 UTC 版)
史料上「長門探題」は北条時直が知られるのみであるが、北条宗頼以後の北条一門がつとめる長門守護は、他の守護よりも強い権能を持っていたことが散見され、後世における「長門探題」の名称はそれによると考えられている。ただし、その実体はつまびらかではない。 これに対して実体が不明なのではなく、「長門探題」の存在そのものを否定する説もある。この説によれば、『忽那文書』「忽那重清軍忠状」以外に「長門探題」と記された文書が今日まで見いだせないのが不自然であること、また「長門探題」という職制が実在したとすれば六波羅探題や鎮西探題と同様に幕府の命令を直接受ける立場にあったことになるが、現存する行政文書から得られる情報では幕府から長門国守護に対する命令は元寇以降も六波羅探題経由にて行われており、またそれ以外の分野においても長門国守護は六波羅探題の指揮・命令を受ける立場にあり、その命令下の範疇を越えるような職権を行った証拠は発見されていないと指摘されている。そして、元寇以降、北条氏の一門の有力者が長門・周防の守護を兼ねる状態が続いていたが、彼らの出自ゆえに「長門探題」という俗称が用いられていた可能性はあるものの、当時の鎌倉幕府に「長門探題」と称される役職・組織は存在しておらず、「防長守護」と呼ぶべき存在であったとしている(佐藤秀成「防長守護小考」)。
※この「名称と実体」の解説は、「長門探題」の解説の一部です。
「名称と実体」を含む「長門探題」の記事については、「長門探題」の概要を参照ください。
- 名称と実体のページへのリンク