名目上の「皇帝」
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オーストリアでは、ナポレオン1世にその地位を追われたマリア・カロリーナ前ナポリ/シチリア王妃は、ナポレオン1世への思慕を持ち続ける孫娘マリー・ルイーゼを厳しく批判したものの、母子の訪問を受けてナポレオン・フランツを可愛がった。 同年9月からのウィーン会議を前に、ナポレオン1世を追ってエルバ島へ行く意思があったマリー・ルイーゼ大公女に対し、フランス敗戦後の外交交渉が終結していない中、オーストリア側はエルバ島行きを阻止する必要があった。フランツ1世は、娘マリー・ルイーゼをエクス=レ=バンで静養させ、アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵を護衛兼監視として派遣した。5月29日、ナポレオン1世の最初の后ジョゼフィーヌが逝去したことに端を発し、ナポレオン1世がマリー・ルイーゼ宛てに厳しい叱責の手紙を送った結果、8月にマリー・ルイーゼのナポレオン1世への思慕は潰え、同年9月、マリー・ルイーゼとナイペルクは初めて関係を持った。 1815年2月、ナポレオン1世がエルバ島を脱出して復位する(百日天下)。父ナポレオン1世が復位したのと同じ頃、ナポレオン・フランツは4歳の誕生日である3月20日、モンテスキュー伯爵夫人が養育掛を解雇され、やがてマリー・ルイーゼに従ったフランス人の使用人たちも退下させられたことで、ナポレオン・フランツの周囲からフランス色は排除された。 ナポレオン1世とフーシェから後継者としてナポレオン・フランツを指名し、叔父のリュシアンによって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、フランソワの即位は公的なものとなった。6月18日のワーテルローの戦いを前に、母マリー・ルイーゼ一代限りとして、パルマ公国の君主の地位が与えられ、そしてナポレオン1世は同会戦で敗北を喫した。ナポレオン1世は6月22日、ナポレオン・フランツへの譲位を条件に退位したため、同日から7月7日までナポレオン2世は名目上の「フランス人民の皇帝」であった。
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